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バケツに銀河が広がって

1 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/16 18:17
−ゆらゆらと光にゆれるバケツのなかで−

2 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/16 18:18
なんの変哲もないバケツなんだよ
雨漏りがすれば雨受けに
今日は植木の水やりに
あっちにぶっつけこっちにも
ボコボコにへこんでるしきたないし

そんなバケツのなかにも銀河が広がってるんよ

3 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/16 18:20
tanasinnか?

・・・tanasinnだね

4 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/16 20:49

 闇の中に一歩足を踏み入れ、以外と心地良い事に気づく。
しっとりとした空気が肌を包み月のあかりから逃れ、隠れる
よう身を隠す。
「そんな時があってもいいでしょう?」
 誰に問い掛ける訳でもなく、独り言。遠く近く、聞こえる蟲の
声、眺めながら、ゆっくりと闇へと身を沈る。闇のなかに風が
起こり指の先を舐めると風が螺旋を描く。
 黒い雨が降ってきた。白いTシャツは、まだらに染まり、やが
て闇へと同化する。
 黒い着衣の、通行証を手に入れた私は自由に闊歩する。
 月夜の道は御用心、決して笑ってはいけない。月明かりに
照らされた、あなたの白い歯があなたの居場所を示してしまう
から。

5 名前:海野正一 :04/08/16 21:11
花火じゃな

6 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/16 23:58
 ゆらゆらと揺れる水面を眺めていた。遠くの山並みが茜色に染ま
り、川の流れが、いくぶん穏やかに感じる。肌に刺さる日差しも影を
潜め、やわらかな風が頬を撫でた。
 遠く近く、牛蛙の鳴き声が聞こえる。何匹もの蛙達が、葦の根元に
隠れ合唱してくれていた。川岸の道路を走る車列のテールランプの
赤が、点々と色濃なり、闇が訪れる事を告げていた。
 いつしか、蛙の合唱も止み、風が止まった。先程まで、揺れていた
水面も油を張ったように動いていない。
「きた」
 竿の先に垂れている糸が、ピクッ と震えた。瞬間、浮きが水中に
吸い込まれる。
 迫る闇と、魚とが一体となり、糸の先で蠢いている。ぐっと竿先が、
しなり川の深みへと魚は誘う。
「釣っちゃいかん」
 突然、大声が聞こえた。いや、耳に聞こえたのではなく、脳に直接
響いた。
 その一瞬、手に掛かる重みが弾け、軽くなり反動で竿先が頭上を
越え、川べりに尻餅をついた。呆然と闇の中、小石の上に胡坐を
かいていると、牛蛙の合唱が耳に響き、それに合わせるよう無数の
光が舞っていた。蛍だった。

7 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/17 00:00
 蛍に導かれるよう右足からゆっくりと水の中に入る。冷たい感覚が
足首へと伝わり、やがて、ふとももから胸へと水面が移る。
 もう一歩、と踏み込んだ。川底は深く、脚は水中を滑ると同時に全身
を没した。 ここで記憶が途切れた。

 目が覚めた。ゆらゆらと揺らぐ川底の空き缶が、まるで意思を持ち動
いているよう見え、上を仰ぐと水面に射す月の光が歪んで笑っていた。
深く、暗い川底を歩くと、私の身体はゆらゆらと揺れ、水草と同期する。
水草の根元には、銀鱗を潜め休む魚の姿があった。よく見るとあちら
こちらに、魚たちの姿をみつける事が出来た。
 錆びた自転車が、川底の砂に車輪の半分まで埋まりハンドルを上に
立っていた。私はその自転車にまたがり、川底を海まで走ろうと思った。

8 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/17 01:20
 この肉体が私を繋ぎ止める。私はふとももの裏にあるアザを眺め思う。
生きる事への執着が染み込んだ、ぬいぐるみを脱げるならば……と
 何をやってもダメな私は何の為に、この世に誕生したのか?
 
 私は小さい時から、度々夢にでてくる光景を思い返していた。それは、
海の深い所だった。海底の入組んだ地形は、さまざまな景色を造りだし
まるで地上のごとく山あり谷あり、山水画を思わせる。そんな夢の中の
光景に煌びやかな神殿が、二匹の竜に守られ金色の光を放ち私の眼前
にそびえ建つ。
 私はその神殿に入る為、手前の黄金の橋を渡らなければならない。鏡
のように磨き上げられた橋の欄干に映しだされた私の全身は鱗に包まれ
ていた。
 そこで、ハッと夢から醒めるのだ。そして、寝汗をタオルで拭く事になる。
 
 薄暗い部屋の窓から、茜色の空が広がり、街の明かりが人工の星屑を
つくっている。外では暑過ぎた夏を惜しむかのように蝉が鳴いていた。
 部屋の片隅で膝を抱え座り、私はふとももの鱗に似たアザに指を這わす。
自然と溜息がこぼれた。畜生界の竜は人間界に生まれる事を願い、河に
三千年、山に三千年、海に三千年と長い修行を経て人間として転生を許さ
れると言う。

9 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/17 04:11
 土地というものは恐ろしいもので、その上に住んでいる者の運命
さえ変えてしまう不思議な力を持っているものなのだ。

 この事はいまだかつて、誰にも話したことはない。
 無性に話してしまいたくなる時、俺はぐっとこらえてきた。今から、
ここに話す事は作り話だと思って聞いてくれ。

 俺の仕事は 光る土地 を探し当てること。光る土地ってなんだ?
 こう聞かれると困ってしまうのだが、簡単に言うと、例えば、この土
地にラーメン屋を出店したら必ず客が入る。 という土地を俺は光る
土地と呼んでいる。
 その光る土地を探し出し、俺は依頼主に報告する。たったこれだけ
の仕事で、その土地に建つ店舗の総建築費の10%が俺の懐に入る。
それは設計師が描く建築図面と同等の歩合だ。
 それぐらい、オーナー達は立地というものに拘った。
 どんな商売にでも当てはまると思うが、立地、如何によって売り上げ
が天と地ほど変わってくる。特に飲食店、風俗店等は影響が甚だしい。
 その為、店のオーナーは、俺みたいな人間を使う。

10 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/17 04:14
 俺はフリーの立場で、今の仕事をしているわけだが、看板を出して商
売をしているわけではない。口コミで仕事が舞い込む。依頼主は全て
飲食店のオーナーだ。
 この光る土地と言う呼び方は、俺がひそかに心の中だけで呼んで
いるだげで、依頼主への報告書には候補地と記した。
 不思議な事に俺の選んだ候補地の近くには決まって、墓場や霊園の
類があった。
 通常、出店計画を立ち上げ、候補地を選定する際、近くの行楽地から
の幹線道路の土日、平日の交通量を調べたりするが、俺はいっさいそ
んな事はしない。

 俺は不思議な能力を持っていて、その土地を見るだけでそこに住
んでいる人の健康状態やら、家主が持ち得る運の有無などが分か
ってしまうのだ。いや、正確に言うと見えてしまうのだ。
 どのように見えるかというと、光って見えるのだ。その家なり、店補
なり、空き地など境界線に沿って緑色に発光して見える。家人の健康
状態などもその土地の樹木が俺に教えてくれる。
 事実、俺の眼には土地が光って見えてしまうのだからしょうがない。
 あぁ、俺はこんな事を話していいのか……
 それと、決定的な“者”が視えてしまうことも……

11 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/17 04:17
 十年前のある暑い、夏の日だった。当時、俺は大手コンビニの店舗
開発の仕事をしていた。


 一本の茶柱が浮きつ沈みつしている碗の中に、ふうっと息を吹く、
茶柱を避けながら、すする緑茶が旨く感じる。
 夏の強い日差しを遮るかのように、紺の暖簾が風に揺れ店内に
涼を呼ぶ。
「おまちどうさま、今日は暑いだんべ」
 腰の曲がった、おばあちゃんの皺くちゃな顔から笑みがこぼれる。
テーブルの上に置かれた小皿には、串にささった団子が三つ並ん
でいた。
 俺は団子を運んでくれた、おばあちゃんに聞いてみた。
「そこに見える霊園は、どこのお寺さんが管理しているのですか?」
「あぁ、そこかい延暦寺の霊園だね、だけんど、管理は管理専門の
石材会社がしているっう話だねぇ、あんたぁ、お寺さんに用事で来な
すったんかい」
「いえ、そういうわけじゃないんですが」
 俺は名刺を差し出した。おばあちゃんは手の中にある名刺を眺め、
「あぁ、不動産関係かなんかの人かね」
「まぁそんなとこです」
 団子屋の店先にある道路を挟んで、向かい側には霊園の境界線
と言うべき灰色のコンクリートの壁が長く続いていた。

12 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/17 04:21
 狭い店内に目線を移すと、客席は八割方埋まり、店内は静かだが
それなりに繁盛しているようだった。しかし、通常と違うのはテーブル
着くお客、ひとりひとりに、その“者達”が付いている事だけだった。
 その“者達”とは、この世の者ではなかった。食べ物屋で繁盛して
いる店は、大抵、その“者達”が、この世の者の身体を使い丼物や
ラーメンなどを食べている事が多い。
 この団子屋もそのような店の一つだった。働いている者には害は
なく、むしろ、商売が順調に行き良い。
 その“者達”の姿形は餓鬼そのもので、客の脇で手づかみで団子
掴み、串ごと口に放り込む。串の尖った先が頬を破り飛び出してい
てもかまわず、次ぎ次ぎと団子を喰い散らかす。そんな、有様が見
えてしまう俺は、食い物に興味が持てなくなってしまった。
 やつらは俺の存在を判るらしい、いや、俺がそのような能力を持っ
ている事を知っているらしい。
 というのも、俺に目線をあわせウィンクする“者”がいるという事だ。
 その“者達”と話しはしたことはない。だから、らしいと確信が持てな
いのだ。
 そうそう、この団子屋は結局、土地が狭く両隣の民家を合わせても
コンビニの店舗と駐車場が確保出来なかったので、候補地から外し
た。灰色のコンクリートの壁から、ぞろぞろ出てくる、その“者達”には
それで良かったのかもしれない。

13 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/17 04:24
 今、これを読んでいる、あなた。ふと、焼き鳥屋の店先で匂いにつ
られ、暖簾をくぐる事はありませんか?
 車を運転していて、ふと、喉の乾きを覚えコンビニに立ち寄る事は
ありませんか?
 その“者達”が、あなたの身体を使い飲み喰いをしているのかもし
れません。そんな時、周りをちょっと見てください。
 近くに墓地や霊園があれば、俺が選んだ土地に建った店かもしれ
ません。

 土地というものは恐ろしいもので、その上に住んでいる者の運命
さえ変えてしまう不思議な力を持っているものなのだ。

14 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/19 01:53
 打ち捨てられた黒電話が見える。黒い海底ケーブルの様な物が川底
を這い、私はそのケーブルに沿い海まで行こうと自転車のペダルに靴を
のせた。
 ゆらゆらとペダルを漕ぐ脚は歪んで見え、力がはいらず川底の砂に
車輪は喰われ前に、のめり込む。歪んだ世界の法則に身体は馴れず、
少し戸惑う。時間の呪縛から開放された身体は少し軽く、また、少し頼
りなかった。肉体に依存していた時代の“キオク”が薄れ、錆び付いて
動かなくなりつつある。
 私は自転車を漕ぐことを諦め、黒電話の受話器を手にダイヤルを回す
と発信音が川の水を震わせ、鼓膜に伝わる。不思議な事にこの電話は
何処かに繋がっているようだった。
 ガッチャ と相手が受話器を上げる音がした。ケーブルの向こうに居る
相手の声と雰囲気が、受話器を通して伝わりくる。相手は過去の自分で
今の自分ではない。肉体を持つ自分はケーブルの向こう側で、今の自分
は川底で揺らいでいた。そんな様子をナマズが空き缶の陰から見ている。
私はゆらゆらと揺らぐ空き缶から目線を上にする。水面に射す月明かり
が冷たく、蒼く、夜の世界を支配していている。ナマズの髭が、ぴっくんと
動き水面が波立った。波がたつ度、白い小さな気泡が無数に生まれ消え
する川底から見た世界は人の生き死にを操るかの如く月の引力に一喜
一憂し月に支配されている事を悟る。
 私は受話器から流れる息づかいに、己の過去を思い巡らす……

15 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/19 01:57
「ヒロちゃん、ありがとね」
 ちぃちゃんはいつもそう言い、白いハイエースの助手席から降りていく。
夜中の一時過ぎに見る、ちぃちゃん家は、灯りは落とされ寝静まっている。
安いトタン張りの長屋に崩れ落ちそうな瓦、玄関先にはダンボールやら
板の切れ端やらと無造作に置かれ住んでいる者の心が映し出されていた。
私の目線の先にある、板切れと私の顔を交互に見て、ちぃちゃんは言い訳
するように、また、誰かを庇うように俯き言った。
「お父ちゃん、大工だから」
 私は何も言えず、何度も、何度も頷いた。おそらく、手間大工で仕事が無
いのだろう。ちぃちゃんの短い言い訳でそんな事が判ってしまい言葉を継ぐ
ことが出来なかった。
「お疲れさま」
 私は心を込めて言う。
「バイバイ」
 と手を振り、ヘッドライトを落とした夜の闇に、先程まで男に抱かれていた
小さな身体を滑り込ませ、とぼとぼと玄関まで歩いていく。
 ちぃちゃんの後姿をフォグランプの仄かな光の中で確認してから私は送迎
用の白いハイエースのハンドルを握り、Uターンをして店へと帰る。

16 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/19 04:27
 帰路の閑散とした深夜の交差点に酔客がうずくまり道路の端で嘔吐して
いる。見慣れた風景に心は動かず、ただフロントガラス越しに流れ去るだけ
だった。街路灯の青白い光の点が規則正しく過ぎ去ってゆく中、私は今日の
店での事を思い出していた。

 安っぽい横長のソファーの上、頭上の壁に取り付けられたブラックライトの
蒼い光の中に浮かぶ、ちぃちゃんの白い肌が僅かに紅く上気していた。
 店内のAbbaのダンスミュージックが必要以上に大きく響くなか、ちぃちゃん
は客に抱かれていた。
 私が客の求めに応じビールをテーブルに持って行く際、ちぃちゃんは客の
体に隠れるようにし、小さな手で乳房を隠した。黒く肩まで垂れた長い髪が、
乱れ、チャイナドレスの裾は捲くれ上がっている。愛らしい目元は伏せ、早く
テーブルから去ってくれと私に無言で訴えていた。

17 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/19 04:33
 私は床に片膝をつき低い姿勢で、客に対し失礼のないよう一言、テーブ
ルを後にしようとした。
「ごゆっくりどうぞ」
 立ち上がりかけた時、ほろ酔い気分の客から声を掛けられた。
「あんちゃん、延長なんぼ」
「はい、延長料金は四十五分で八千円となっております」
「ほな、延長するわ」
「指名のほうはどのようになさいます?」
「この子でええよ」
「指名料が、プラス三千円になりますが、よろしいでしょうか?」
「ええよ」 
 機嫌良い答えが返ってきた。私は店長に五番テーブル延長です。
 と、報告をしてそのまま店の外に出る。
初夏の夜風は心地よく、タバコの煙が、すうっと街に吸い込まれていく。
 道行く人々の横顔を、ピンサロの点滅ネオンが照らしていた。うれしそう
な顔、泣きそうな顔、苦虫を噛み締めた顔、数人で連れ立った若い体育会
系の学生達の楽しそうな顔、全てが歓楽街の風景だった。

18 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/19 07:50
 店に帰ると薄暗い店内は一転し隅々まで電灯の明かりが行き届き、今
まで見えなかった壁の汚れやソファーの汚れが目に付く。
 店長はリスト席で現金を数え、銀行の貸し金庫バックに詰めているとこ
ろだった。
「おう、おつかれさん、俺はこれであがるけど、後よろしくな」
「はい、お疲れ様でした」
 私はひとり広い店内に残った。静まり返った店内のソファーに腰を下ろし
少しの間、脚を休め、パンパンに腫れたふくらはぎを拳の甲で叩いた。
 寝床を作る為、腰をあげ横長のソファーを四つ寄せた。背もたれの部分
を互い違いにしてベットの形にする事で完成だった。
 バックをひとつ手にした私はこの店に流れ着き雇ってもらい、一ヶ月が経
とうとしていた。店泊にもようやく慣れた。アパートを借りる金など、もちろん
無く、こうやって店に泊まらせてもらうだけでありがたかった。文学くずれの
二十歳そこそこの私を雇ってくれた、今の店長は店の稼ぎ頭である女性と
同棲していた。

19 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/19 07:52
 その女性は竹を割ったような性格で下の子達の面倒をよく見ていた。歳は
若く、二十五才だったが、周りのお姉さん方も一目置く存在だった。なんで、
こんな綺麗な人が、こういう店で働いているのかと思う程、際立った存在で
もあった。年上のお姉さん方の風あたりを、ひょいと透かす術も持ち合わせ
ていたのかもしれない。姉御肌のその女性はちぃちゃんを妹のようにかわい
がっていた。少し頭の弱い、ちぃちゃんはそのような庇護がなければ店で、
いじめられただろう事は想像に易かった。私より一つ年下の、ちぃちゃんは、
弱い存在だったが、人から愛される存在でもあった。私はそんな事を考えつ
つ眠りへと誘われ落ちていった。

20 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/19 09:19
 目が覚めた。枕元に置いてある腕時計を見ると、まだ午前中の十一時
のようだ。電灯を落とした店内は薄暗く昼夜の感覚が無くなる。白地に緑
色の字で非常口とある所だけ、ぼわっと明るかった。私は二度寝出来そ
うにない事を知り起きることにした。ウェイティングコーナーの壁に空調や
らライトのスィッチがある配電盤まで歩き、店内を昼間にした。空調の回る
音がし、ミラーボールが天井に弱い光の星を描いた。溜まっていた洗濯物
を厨房の脇にある洗濯機に放り込み、外に出た。
 強い日差しが眼に染みる。そういえば、昨夜は何も食べず寝てしまった
ことを思い出したら、急に腹が鳴った。食堂を探しながら私鉄駅まで歩く
事にした。街指定のゴミ袋が、そこかしこに置かれ小さなスナックの看板
はコンセントを抜かれ店の脇に仕舞われていた。看板の下に、割り箸が
片方だけ、ぽっんと落ちていた。昼近い時間の歓楽街は疲れ切った表情
を路地裏に滲ませている。人の欲望が通り過ぎた後、路地裏は哀しみを
吸い、落ちた銭で夜を彩っていた。
 私は駅前の小さな食堂に入り、野菜天ぷら定食を頼んだ。
 Yシャツが一枚欲しくなり、デパートに寄り買い求めた。デパートの定員
は首周りを丁重に測ってくれ私に、ぴったりの物を選んでくれた。

21 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/19 10:53
 一応、出勤時間は午後の二時と決まっていたが、タイムカードを押すだ
けで、店内の掃除は女子社員が店に入る夕方五時までに終えれば良い
事になっていた。三時頃から休憩があり、毎日、配達される仕出し弁当を
食い終えてから、ホールに掃除機をかけ、便所掃除、厨房を片付けた。
 つまみなどはホテトチップスなどの乾き物しかなく、厨房の用意といって
も、なにもしなくてよかった。もっとも、客は飲み食いが目的ではないのだ
からそれで良い。
 私の日課は出勤前に、銭湯に行く事だった。この時間の銭湯に来る客
は近所のじいさんか、水商売関係の人間と極道者しかいない。その銭湯
に、ここ二、三日毎日顔を合わせる青年がいた。私より二、三歳年下と思
われる青年は水商売関係の人間とは雰囲気が違い、極道者の雰囲気に
近かった。細面の顔に角刈りが似合い、いつも手ぬぐいを几帳面に二つ
に折り、石鹸を丁重に擦り付け、体を洗ってから湯船に浸かっていた。彼
の一連の動きはよどみなく、正確だった。私はその青年と話をした事がな
く、ただ、青年の哀しそうな背を知っているだけだった。私は青年の真っ直
ぐに伸ばし凛とした背を見ながら数年後を想う、おそらく青年の背には絵が
入るだろう。

22 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/19 18:30
 店に戻りタイムカードを押し、業務用の大型掃除機を引っ張り出す。厨房
に入ると、棚からカサカサと何かが動く音がする、小さな茶羽のゴキブリだ
った。客用のおしぼりを用意してホールへと持って行く。店長は四時頃、出
勤してくるので、私ひとり気楽なものだった。
 入り口に外からの太陽光が射し、誰かが来た事を教えていた。空気が動
いた。
「いつも、お世話になります」
 と、仕出し弁当を持ってくる痩せた女は私に声を掛けながら、クリーム色
の清潔な箱を両手で抱え持つようにし、ウェイティングコーナの隅の床に箱
を下ろす。箱の中には二つ弁当が入っている。私の分と店長の分だ。
 仕出し弁当の女は余計な、会話をいっさいせず弁当を置き、昨日の空に
なった弁当箱だけを持ち帰る。
「御苦労様でした」
 私はいつもこう声を掛けると、仕出し弁当の女は最後、店を出る時、ちら
っと微笑んだ。
 ピンサロ独特の店内の匂い、小便と化粧とが混じったような何とも言えな
い臭気が、おそらく嫌いなのであろう。昼間働く者と夜の世界に働く者の境
界線を引くならば、仕出し弁当の女のように、この臭気を受け容れられない
者が昼の世界に身を置き、この臭気を受け容れられる者が夜の世界に身を
落とすのかもしれない。

23 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/20 03:29
 五坪程のスペースを壁で二つに区切り、奥を厨房として、厨房と手前の
部屋はカウンターが設置され、厨房から物の出し入れが出来るよう、私の
胸くらいの位置から上、八十センチの空間があいていた。厨房に入るには
小さなドアがありそこから腰を屈めて出入りした。
 二坪程の狭い厨房はホールに蛍光灯の明かりが漏れない様な造りだ
った。手前の三坪の小さな部屋というか物置みたいな感じの場所は蛍光
灯の明かりは落とされ雑多の物が置かれていた。片隅に洗濯機、その脇
にはビールのケースが積まれ、ビールを冷やす、ストッカー、折りたたみの
椅子、それと青い大きなゴミ箱があった。店の女の子は営業中、よくここで
息抜きのつもりか化粧を直したりしていた。
 素肌に纏う衣装は胸元の大きく開いたドレス、すけすけのランジュエリー
衣装に乳房は透け、彼女達は色っぽく魅力的だった。
 その日、営業中、
 私は厨房でビールグラスを洗っていると、そこへサンダルの音を鳴らし、
ちぃちゃんが入ってきた。
「うっ」
 と、思わず耐え切れなかったという感じで、おしぼりに口から精液を吐き
出し青いゴミ箱に、そのおしぼりを放り込みトイレへと駆け込んだ。
 トイレから戻ってきた、ちぃちゃんは私に弱々しく笑い、
「ごめんね」
 それだけを言い、ブラックライトの蒼い光のもとへと向かった。

24 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/20 06:16
 天井のミラーボールが、ゆっくりと光を反射し、青や赤のライティングが
交錯する中、光が走る軌道に絡まるようにして天井のスピーカーからは
ディスコミュージックが店内に降り注いでいた。
 ウェイティングコーナーには誰も居ず、十五人いる店の女の子達は全
て客席についていた。店内は活気があり、女の子達は入れ替わり立ち
替わりボックス席と席との間にある狭い通路をサンダルの底で叩き、青
いゴミ箱に欲望の果てを捨てに来る。女の子が新しいおしぼりを二、三
本、片手にする頃、男は席でズボンを膝まで下げ下半身丸出しの格好
で股間だけにおしぼりを一枚広げられ虚脱した姿を晒している。
 私はステンレスのお盆を小脇に抱え、店内を走りまわり客の注文を聞
いては飲み物をテーブルへと運んだ。
 ホールの隅にある席から、ちぃちゃんの喘いだ声が耳に届く。背の高い
ソファー越しに、ちぃちゃんの上半身が見え隠れしていた。客の上に乗り
豊かな白い胸と何かを我慢する切ない表情が揺れていた。上下する身体
に長い黒髪がふわりと空気を纏い曲線を描く度、横顔が快感に歪むよう
に見えた。愛でもなく恋でもなく嫉妬でもなかった。ただ、ただ、ちぃちゃん
は美しかった。それだけだった。

25 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/20 23:17
「ありがとうございました」
 深々と頭を下げる店長の後姿は女の身体で飯を喰わしてもらっている
という自覚か負い目か、滲み出るものが客に伝わっていることは確かだ
った。客はそんな店長の姿勢を見て安心して遊ぶことが出来、また、この
店に来ようと思うのかもしれなかった。
 丁重にアイロンを掛けられたスラックスは折り目の山が付き、糊が利い
た白のYシャツに結び目の大きなネクタイが歳を表していた。一昔前の、
水商売に生きる者のスタイルだった。
 最後の客を見送り、店内の明かりが一斉に点けられた。店長はパンッ
と両手のひらを鳴らし、
「はい、お疲れ」
 店内中に響く大きな声で皆を労った。その声は深海のような底のない夜
の世界から、それぞれの生活に戻りなさい。と言っているようだった。
 店長が私の背中を叩き、
「明日、一日休みだ」
 月に二回ある貴重な休日は、金、土、日曜日を避け、平日の月曜日にな
る事が多かった。
 女の子達は帰り支度をしていた。自分の車で帰る者、歩いて帰る者、男
が車で迎えにくる者。ちぃちゃんだけが一人、店の送迎を使っていた。
 私は送迎用のハイエースを近くの駐車場まで取りに行った。店の前に車
をまわし、ちぃちゃんが乗り込んできた。

26 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/20 23:19
 交差点で信号待ちをしている時、なにげなく横を向くとガラスのショウィン
ドウに映った、ちぃちゃんの横顔は夜の女を感じさせた。
「ヒロちゃん、明日休み?」
 車内には何かを期待させるような無言の時間が一瞬漂った。
「うん」
 フロントガラスの向こうを見ながら目線をあわせずに答える私に、注がれ
ている、ちぃちゃんの視線を意識しながら、
「なんで?」
 と聞くと、
「明日、弟の荷物を運びたいんだけど……」
「おとうと」
 間髪を入れず、オウム返しに聞き返した私の声の語尾は弱く車内に響い
ていた。

27 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/21 01:12
 深夜の車内に、ちぃちゃんの感情が溢れ、拙い単語を継ぎ継ぎ、必死に
話をする細い肩を抱きしめたくなった。私はハンドルを強く握ることで堪え、
前方の景色だけを見つめていた。

28 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/21 01:14
 翌朝、九時に目覚めた。リスト席の引き出しに仕舞われてあるハイエース
の鍵を持ち駐車場へと歩いた。
 運転席のドアに鍵を差込み開けた。車内の空気は動き、昨夜の重い空気
はそこには存在しなかった。初夏の熱い日差しに蒸されたビル風がアスファ
ルト撫でた。
 昨夜、詳しい話を聞くと、なんでも二歳年下の弟は中学を卒業し、畳屋の
親方の家に住み込みで働きはじめたが、僅か一年しか勤まらずぶらぶらと
今は遊んでいるらしい。畳屋の親方から、弟の荷物を片付けてくれと再三
電話があっても、ちぃちゃんにはどうする事も出来ず困っていた。
 ちぃちゃんの親父さんは大工で、ここ二、三年仕事もせずに毎日、毎日酒
を飲んでは家で暴れるという始末で、弟の荷物など到底片付けてくれること
など望めない。私はハイエースを走らせ、ちぃちゃん家に向かった。

29 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/21 04:13
 幹線道路を走らせていると、遠くから救急車のピーポーピーポーという
サイレンの音が聞こえ、暫くすると対向車線を赤い回転灯をまわしながら、
走る救急車とすれ違った。その救急車の中に、ちぃちゃんはいた。
 私はそんな事は知らずにハイエースを走らせていた。私はちぃちゃんに
早く逢いたいと思った。
 昨夜の会話が頭を過ぎる。ゆっくり昨夜の情景がハイエースの車内に
満ちるのを感じた。

「いとしいってどういう意味なん? お客さんがそう言った、意味分んなか
った」
「愛しい……ってのはさぁ、つまり、その…、好きな人を大事にしたいって
思う気持ちっうか、その何ていうか……」
 私はシドロモドロになってしまった。
「じゃあ、ヒロちゃんがさぁ、ワタシの中に入って、ワタシはヒロちゃんの髪
撫でる時の気持ちかなぁ?」
 私は銜えていたタバコを落としそうになった。

 朝の十時前の幹線道路は空いており窓を細く開けると紫煙が、ふうっと
外に流れエアコンの冷気が逃げていった。救急車の音は、もう聞こえなか
った。

30 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/21 04:16
 ちぃちゃん家に着いた。玄関の引き戸は開けっぱなしの状態で家の中
は誰もいない雰囲気だった。
「ごめんください」
 薄暗い家内に、二度、三度と声を掛けたが返事もなく、玄関に立ちつく
していると、近所の人が出てきて、
「今、救急車で病院に運ばれましたよ、この家の人はみんな病院に付い
て行ったんで誰もいないですよ」
 そう教えてくれた。
「えっ、この家の誰が?」
「娘さんがねぇ、ほらそこのコンビニ見えるでしょう、あそこに行くつもりで
道路を渡ろうとしたんでしょうね…… 車に撥ねられてね」
 近所の人の、指の先に現場検証の警察官が数人動いていた。
「即死みたいって……」
 気が動転していた。どうやって店まで帰ったか覚えていなかった。その夜
ちぃちゃんは店を休んだ。店長は、ちぃちゃんが無断欠勤するのは初めて
だと言った。私は、ちぃちゃんが交通事故にあった事を言わなかった。いや、
言うと現実を認めることになるので言えなかった。営業時間が終わり、皆、
帰った。静かな店内に、ひとり残り拳を固めた。

31 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/21 04:18
 愛しいと言う言葉の意味も知らず、毎日、毎日違う男に肌を許し己の命を
削り生活費を稼がなければならない小さな肩は、もうこの世になく十九年と
いう短い生涯を閉じた。
 もし、神様がいるのならば握った、この拳で殴りたい。

32 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/22 06:08
 わたしは茜色に染まるビルの谷間を眼下に見下ろし、上空を彷徨いなが
ら、愚かなそして滑稽でいて愛しい人間達の営みを眺める。
 わたしに体は無い、ふわふわと漂いし者。わたしはただの傍観者。

 おもしろい想念の川が流れてきた。やり場のない怒りに拳を固めた青年
の涙が床を濡らし、その哀しみの涙が人には見えない川となり歓楽街に
流れ出し溢れる。そんな事はこの歓楽街に住む者達にとって日常茶飯事
であり時を支配する“者”が見えない川を消し去り、次の日には、また新た
な哀しみの川が音も立てずに歓楽街を流れ始める。複雑に絡む人間模様
を飲み込みながら、川は生まれ消えゆく。そして、また生まれる。
 耳を澄ますと遠く近く、歓楽街の淀んだ空気に伝う音が“オト”に鳴り、
聞こえない筈の“オト”が地面を揺らす。
 どすん、どすんと大きな足音をたて噂という怪物が街をねり歩く。

「入国管理局の手入れがあるぞ」
 小さく囁かれた、街からは一斉にオバースティの外国人女性が消えた。

 慎治は送迎用の銀色のワゴン車をきっかり八時、五分前にフィリピン
クラブの店につけた。スライド式のドアが開き、車内からは六人の褐色
の肌を露わにした衣装を身に纏った女性達が降りて店へと入って行く。
 慎治は運転席から降り、全員が入店した事を確認し、開け放たれた、
スライド式のドアの取っ手に指をかけた。その時、辺りに漂う化粧と香水
の匂いが鼻腔をついた。

33 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/22 06:11
 それも一瞬のことで初夏の風が、さっと匂いを奪い去ってしまった。辺り
を照らす、ピンク色、ブルー色のネオン管が細く曲線を描きアルファベット
文字で店の名前を形づくっていた。アスファルトに漏れる光が慎治の足元
に小さく影を作る。
 酒造メーカーやクレジットカード屋が各店に無償で取り付ける看板から
の白い明かりが、店と店とが複雑に絡み、入組む路地裏に光と影を生ん
でいた。
 ドアを閉める手に力を込めながら、慎治は、明日は久しぶりの休みだと
自分の疲れた体と目線の先にある、ぼろぼろの黒い革靴を見ながら思っ
た。そうだ明日は自分に、ご褒美をあげよう。月に一度位、いいだろう。

34 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/22 06:19
 厚めのカーテンを引かれた部屋に、夏が始まろうする季節の太陽光が、
容赦なく慎治のベットまで一直線に差し込む。夕方の五時、薄いサッシの
ガラスを透して蝉の鳴く声が、慎治を起した。
 夜の街に働くようになり五年という時間が、目覚まし時計無しで夕方に
自然と目が覚める身体してしまったのだろうか? 
 二十一歳で初めて、この歓楽街に足を踏み入れ水商売へと身を沈めた
慎治は水商売の“水”は、時には泥水になり時には甘露と感じさせる。と、
思っていた。夜の世界にしか生きられない人間もいる。とも……

 ベットから起き上がり、ジーンズとTシャツに手早く着替え部屋を出た。喉
に乾きを覚えながら駅前まで歩く。ラーメン屋に入り、軽く腹を収めた後、
 靴屋で黒の革靴を買った。慎治は靴が入った箱を小脇に抱え、歓楽街の
アーケードをくぐった。昨夜、歓楽街に流れた噂の事を考えながら歩く。入管
による一斉手入れの噂は、結局ガセ情報だった。よくある事だった。
 警察と歓楽街は密接に繋がっており、警察もその辺は上手く立ち回り、無
闇やたらと店に踏み込むことは無い。
 入管もその辺は同じでターゲットとなる店は、いつも同じ経営者の店だっ
た。慎治は、もしも、という事を考え店のオバースティの子達を歓楽街から
一時避難させた。結果、昨夜の売り上げは、ガクンッと落ちた。
 慎治の足は自然と、あるピンサロへと向かっていた。

35 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/22 06:23
 店内を案内され、背の高い固めのソファーに腰を沈めると、蝶ネクタイの
ボーイが飲み物を聞きにくる。
「ビール頂戴」
「指名のほうはどのようになさいます?」
「千晴いる?」
 さすがに、早い時間帯とあって店内は、空いていた。
「はい、出勤しております。千晴さんでよろしいでしょうか」
「ああ、千晴、指名でいいよ」
 慎治は月に一度くらいの頻度で、この店に来ていた。初めてこの店に入
ったのは桜の花びらが散り終えた、四月だった。その日も今日と同じく休日
で、何処に行くあても無く、ぶらぶらと夜の歓楽街を歩いていた。
 看板のオレンジ色のネオン電球が点滅する店前で呼び込みの声に促さ
れるままに、この店に入った。その時にテーブルについた女が千晴だった。
今回でこの店に来るのは四回目だった。季節は夏を迎えようとしていた。

 暫く待っていると、サンダルの音を鳴らしながら肩まである黒髪を揺らし、
千晴が来た。千晴は慎治の横に座り、慎治の目を覗き込み笑った。千晴
の二重の瞼が閉じ、自然と唇を重ねる。しゃべりが得意ではない千晴の
唇は慎治に安らぎを与える、と同時に下半身を熱くさせた。二人は一旦離
れた。

36 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/22 06:28
 言葉はいらなかった。月に一度しか逢えないこの女とこの店で客として
肌を重ねる事が慎治にとって自分自身の褒美だった。
 千晴の小さな手がジッパーを下げ、誇張した下半身に顔を埋める。舌の
ねっとりとした感触が慎治を包み、敏感な部分はさらに熱を帯びた。慎治
の指は自然とコスチュー衣装の裾に滑り込む。薄い布越しにも千晴の部分
は濡れていることが分った。大きく開いた胸元をはだけ豊かな乳房が露わ
になる。上に乗った千晴の横顔をミラーボールの光が時折射し、切ない表
情が揺れた。しっとりと肌は汗ばみ唇から細く漏れる息は一瞬止まり、千晴
に波が押し寄せてきた事を教えていた。同時に慎治も果てた。慎治の耳に、
Abbaのダンスミュージックが流れ込んでくる。ぐったりした千晴の髪を撫で、
慎治はこの女が愛しいと思った。小さな肩を抱き寄せた。
 慎治の口から思わず言葉が漏れた。
「愛しい……」
 千晴の表情は一瞬、んっ、という感じに動いた。
「あたらしい、おしぼりもってくるね、延長する?」
 何事もなかったように、そう言った千晴は十九歳の子供だった。腰を上げ
テーブルを立とうとする千晴に質問してみた。
「店で、なんて呼ばれているの?」
「なまえ? みんな、ワタシのこと、ちぃちゃんて呼ぶ」
 あどけない表情でそう言った。
 慎治は、まぁ、いいっか。と思い直し、来月もまた、この店に俺は足を運ぶ
だろうなと、頭の隅で考えて店を後にした。外は初夏の匂いがした。

37 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/23 02:42
 店を出た慎治は、ぶらぶらと歓楽街を歩く。思う。職場のフィリピンクラブは
女の香が溢れていた。身体に張り付くような、ぴったりとした衣装、くびれた
腰つき。男をやさしく包む笑顔。髪をかきあげる仕草にちらりと見えるうなじ。
気の強い子が、ふと見せた泣きそうな顔。そんな営業中に見せる彼女達の、
表情に女が香り、漂い店に充満する。むせ返る女の香の底に這うようにドロ
ドロとした女同士のライバル心が黒い河として流れている事も知っていた。店
はその女のライバル心を…… いや、慎治は首を左右に振り、思い直した。
 店ではなく、俺はその女のライバル心を利用して店をまわしている。
 慎治は冷酷に女を商品としてみる目が自分の中にあることを意識していた。
それは、冷たく、平坦な感情だった。
 路地裏を渡る風が頬を撫ぜ、中華料理店の裏手から、チャーハンの香ばし
い匂いがする。
 千晴の肌は、一時でも何かを忘れさせてくれた。
 白い前掛けをした料理人が木の椅子に腰を下ろし、小さなラジオに耳を近
づけ身を乗り出す様にしている。
 そのラジオからは野球中継が流れていた。歓楽街の人通りの多い辻には、
派手なスーツに身を包んだホスト達が道行く女に声を掛けていた。
 どぶ川のすえた匂いのする歓楽街にキンモクセイが咲いていた。その目に
見えないキンモクセイは夜にしか花開かない。
 千晴も夜の世界にしか生きられない人間なのかもしれない……
 慎治はそう思った。

38 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/23 12:16
 考え事をしながら歩いていると、いつしか人通りの少ない所まで来てし
まっていた。水の流れが聞こえた。
 歓楽街のはずれに、幅五メートルくらいの小川が流れ、その川に沿うよ
うに、石畳が敷かれた遊歩道が走っていた。柳の枝が垂れ、桜の青葉が
遊歩道を目隠しするように並び植えられていた。どの位の距離かは定か
ではないが、一キロ、ニキロと続く遊歩道には木製の洒落たベンチが設置
され、昼は犬の散歩に来る人々の脚を休ませた。夜は街路灯の明かりと
月あかりが交じる白く淡い光が恋人達の影を作っていた。
 歓楽街には、そんな静の一部分もあった。
 慎治は此処の桜が好きだった。遊歩道の中からではなく、外から眺める
景色が好きだった。昼間、道路側に立ち枝下に透ける静かな空気を眺め
ていると小川の水が涼やかに流れる音が聞こえ乱貼りに打ってある石畳
に木立の影が、くっきりと陰と陽を分かち刻まれる。

 慎治は遊歩道を歩いていると、
「おう、慎治」
 何処からか呼ぶ声が聞こえた。川向こうに、営業部長の花田が立って
いた。
「おはようございます」

39 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/23 12:19
 水商売の世界では昼でも夜でも、あいさつは“おはようございます”だっ
た。川向こうに立つ小柄な男は慎治の直属の上司だ。同じ街に八店舗あ
る系列店を束ねる男だった。オーナーはめったに店には顔を出さず、替わ
りに、この男が現場を取り仕切っていた。慎治は花田のもとに走り寄った。
 おはようございます、と改めて挨拶し直し、ゆっくり目線を上げた。花田
は目尻に皺をよせ笑っていた。
 紺色の地味だが仕立ての良いダブルのスーツの胸元に、銀色に光る
プラチナのバッチ、腕のロレックス時計が夜の男だという事を教えていた。
「いいのぉ、休みの者はなぁ」
「休みといっても、これといってやる事もないし……ぶらぶらしてます」
「おう、そうか、そりゃそうとな話は変わるがな来月、親父のお供でフィリピ
ンに飛んでもらいたいんだが…… パスポート持ってるよな?」
 花田が右手の親指を立てる時は、親父=オーナーの事を指していた。
「ええ、パスポートは、まだ期限切れてないと思います」
「そうか、そうか、じゃあ一応、頭の隅に入れておいてくれ」
「はい」
「そんじゃあな、頼むど」
 それだけを言い、花田は歓楽街の中心へと歩き始めた。慎治は腰を落と
し、お辞儀の姿勢をとり見送った。顔を上げると、数メートル先を歩く花田
は、くるっと身体の向きを変え、
「親父のお供って言っても半分遊びみてぇなもんだ、ゆっくり休養して来い」

40 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/23 22:06



 「今年のオールスター戦は、面白くなかったなぁ」
 空調の効いた店内は六つあるボックス席の半分が埋まっている。黄色く
熟れた、マンゴーを銀色のスプーンで掬った華奢な手が、ひらりと舞い客
の口へとねじ込んだフィリピン娘は、いたずらな笑みを浮かべる。
「うっ、おいおい」
 ねじ込まれた客はまんざらでもなく、うれしそうにしている。同席の会社の
同僚らしき男は返事に少し間を置き、
「そうだいなぁ、あれじぁね」
 隣に座る、フィリピン娘の膝の上に手を乗せそう答えていた。
 テーブルからは客同士のそんな会話が聞こえていた。プロ野球もオール
スター戦を境に後半戦へと折り返していた。
 いつしか、季節は八月に入ろうとしている。

41 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/23 22:09
 グリーンのソファーを配し、その色を基調とした店内は落ち着いた雰囲気
が漂う。クラッシク音楽が静かに流れ、客が席に着くとウェイターが飲み物
の注文に伺い、さりげなくテーブル上のアルコールランプに火を入れる。
 店の女の子と先程まで外で遊んでいた客は一様に機嫌が良く、また少し
の疲れを身体に纏わせ入店する事が多い。
 店のサービスとして同伴フルーツが運ばれる頃、女の子は化粧直しを終
え席へと戻る。薄く緑がかった大理石のテーブル上には小さな炎が空調の
加減で揺れグラスに反射し、客と女の距離を浮かび上がらせる。
 慎治は店内の片隅で、その距離を測り売り上げの電卓を弾くのが仕事だ
った。店全体の管理をし、尚且つ数字として結果を出さなければ、この店に
いられなくなる。慎治の替わりとなりうる人材は夜の街には、掃いて捨てる
程いた。
 慎治はリスト席に座り、手元の小さな蛍光灯に照らされたリスト用紙を睨
んでいる。数日前、三名いっぺんに帰国してしまいその為、女の子のやり
繰りに頭を悩ましていた。枠線で細かく区切られたB4の用紙の右上に店名
と日付を書き込んだ。一番左の縦列に今日出勤した六名の女の子達の名
前を入れ、横列で時間系列を管理する為、三十分単位で枠線が引かれて
いる欄にボールペンを走らせながら慎治は、ふうっと溜息をつき明日までの
辛抱だと自分を納得させた。明日、新しいフィリピーナ達が入国する予定だ
った。B4のリスト用紙には、何番テーブルに何分、ジェシカという女の子が
座り、指名有り、無しという事が時間を追いながら一目で分るようになって
いた。慎治は手書きのアナログ的手法に拘った。今ではWindows上で走る
便利なソフトが出回っていた。

42 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/24 01:31
 ウェイターの山崎が耳打ちした。
「女の子すくないと店んなか、沈みますね」
「ああ」
 慎治はその事につては、一応手は打っていた。基本的に系列店の女の
貸し借りは有りだったので、仲の良い他店の店長にそれとなく打診をして
おいた。他店の店長も快く慎治の話を聞いてくれていた。
「今日あたり、瀬山さんが来るんじゃないすっか?」
「おい、おい怖い事言うなよ」
 慎治は顔で笑ってそう答えたが、心の中では本当は瀬山が来ないことを
祈っていた。
 慎治が預かる店は、フィリピンクラブとしては狭い箱で客の数で勝負する
事は出来ず、一度入った客を何度もセット延長という形でテーブルに釘付
けしなければならなかった。その為、女の質と店の内装には気を配るだけ
でなく金もかけられていた。金離れの良い客層をターゲットとし、その中で
も、瀬山は、上玉の常連だった。瀬山が初めて店に訪れた事を思い出す。

 店内にちょっと目先の変わった趣向としてフィリピン人の生バンドを入れ
時間を区切り演奏させ長時間いる客が飽きないようにしてみたりと試行錯
誤している時期のある晩の事だった。

43 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/24 01:36
 その日、店内は早い時間込み、ウェイターの山崎は狭いホールを小走り
で動いていた。厨房では同伴フルーツを六つ造り終えた若者が、ほっと胸
を撫で下ろしている表情が印象的だった。
 そんな、忙しい嵐も過ぎ去り、満卓だった店内も、ぽつらぽつらと空席の
方が目立つようになった。ホールの片隅で、山崎は所在なげにステンレス
の銀盆をもて遊んでいる、夜もかなり深い時間だった。
 黒い重厚なドアが開く音がした。
「いらっしゃいませ」
 二人連れの客の先に立ち案内する山崎の後ろには、銀縁のメガネを掛
けた五十代の男性、仕立ての良い灰色のスラックス、白のYシャツの第一
ボタンは開き、銀髪の混じるオールバックに丁重に櫛が入れられているの
にもかかわらず、後頭部の髪が少し跳ね、その頭からネクタイの鉢巻が垂
れていた。連れの三十代後半の男は少し疲れた様子で店に入って来た。
 二人はテーブルに案内され腰を下ろす、山崎はおしぼりを手渡しながら
飲み物を何にするか聞き終え、厨房へと指示を出していた。テーブルには
まだ女の子は付けていない。慎治はリスト席で誰をあてるか思案している
と、五十代のオールバックの男が、つかつかと慎治の脇に寄って来て、
「接待だから、東京から偉い人きてるから頼むよ!」 ポンと慎治の肩を叩
いた。慎治は一瞬で理解した。
「トイレどこ?」
「あちらの奥になっております」 ふらふらと千鳥足で歩く男の背を見て、
 この男は上客になる。そう確信した。

44 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/24 01:39
 トイレを出た男は、慎治の所へ戻り、耳元で小さく、
「女の子全員テーブルにつけて」
 それだけ言い、接待相手の待つテーブルへと歩きながら大きな声で、
「今日は、どーんと行きましょう、どーんと」
 その声に押されるように慎治は、すぐ山崎に指示を出した。
「おい、テーブル三つ繋げて、でかいテーブル作れ、女全員つけろ」
 店内は一気に熱を帯びた。

45 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/24 02:58
 慎治はクラスAというランクの女、セシルを中心に据え攻めていこうと
考えていた。このランクとは現地プロタクションが、自分の所で抱える、
タレントに対し事細かに、A、A´、B、B´、Cというように等級をつける事
によって女に支払われるギランティーを決めていた。クラスAに入るには
かなり厳しい条件があった。その条件がある故に売り手側のプロダクシ
ョンが提示するランキングは客側となる、店のオーナー達には一定の
信頼を得、評価もされていた。
 店側は問題のあるタレントに来てもらいたくないというのが本音だった。
これは、日本全国に点在するフィリピンクラブが抱える問題でもあり、
日本サイドのプロモーター(芸能プロダクション)を通して、逐一情報が
現地プロダクションへと渡った。その情報はランキングの評価対象となっ
た。
 店での勤務態度の良い者、日本語の堪能な者、客あしらいはどうか?
歌が上手い者、ダンスの得意な者、そして、容姿だった。
 クラスAの中には、フィリピンの芸能界くずれ、映画に何度か出演してい
る者、芸能誌の表紙を飾った者、現地のテレビ番組ではかなり顔の売れ
ている者もいた。そんな女の子達がゴロゴロといた。
 セシルもその一人だった。

46 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/24 05:17
 ドン・ピシャリ! だった。セシルで当たった。店内は盛り上がり、周りの
静かに飲んでいる客まで巻き込み、店が揺れる程だった。
 店の中でおどけて見せ、女の子に頭を叩かれ自ら道化役を演じている
五十男が瀬山だった。
 その、乱遅気ぶりは接待だからこそ出来るのかもしれない、とその時は
思った。

 慎治は時計の針を確かめた。
「失礼します」
 一声掛け、テーブルへと割って入った。
「そろそろ、ラストオーダーになります」
 メニューを手渡しながら、慎治は反応を覗った。
「もう、お終い」
「いえ、後一時間ほどで閉店になります」
 午前四時だった。
「そう、じゃあヘネシーのボトル持ってきて呉れる」
 それは、瀬山から無言のメッセージであり、この店気に入ったから、また
来るよという事だった。
「ありがとうございます」
 一礼をして席を離れ、すぐに店内マイクを使い、セシルを呼んだ。
「フィリピン料理、頼むぞ」
「イイヨ、テンチョウ、オンナノコ、ミンナイクネ」

47 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/24 05:22
「おまえ……、全員って、じ…十五人だぞ」
「ダイジョウブ、ダイジョウブ」
 セシルは軽く笑った。会話の中でのフィリピン料理とは、オーナーが経営
する店のひとつで、
 歓楽街にフィリピンクラブ、パブが七店舗、八店舗目のフィリピン料理の
店の事を指していた。その店は夜中から朝の八時、九時まで開いていた。
 夜の遅い時間から一、二時間、フィリピンクラブで遊んだ客は、まだ少し
遊び足りないなっと、思っている客が多かった。そんな客の受け皿として
フィリピン料理の店が存在した。同じ街に七店舗展開している系列店が、
閉店後、客と女の子達をその店に送り込む。女の子達はそこで夕食として
きちんとした食事が取れる。店も利益があがる。大抵、一人の客に女の子
を二人とか三人の割合で付けた。慎治は十五人全員というセシルの言葉
が、にわかに信じられなくなってきた。すでに、瀬山達のテーブル以外には
客はいなかった。
「失礼します、そろそろ閉店になります」
「そうか、そうか、やぁー 楽しかったよ、じゃあ会計してくれる」
「はい、ありがとうございます」
 瀬山は札入れからアメリカンエキスプレスのゴールドカードを抜き、慎治
に手渡しながら、
「フィリピン料理屋が、あるんだって」
「はい、わたしどもの系列の店でご安心できる料金設定で、やらせてもらっ
てます、もし、宜しかったら私が御案内いたします」

48 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/24 11:36
 その日を境に、瀬山は頻繁に店へと足を運んでくれるようになった。多い
ときは週に三、四回、最低でも、週に一度は顔を出した。初日以外、瀬山
は一人で店に来た。いつも決まって深夜十二時を過ぎてから、赤い顔をし
て入ってくる。何処かで一杯やってくるのだろう。瀬山のテーブルは賑やか
で華やかだった。陽気に瀬山は言う。
「どんどん持ってきて」
 自分では、オードブル、フルーツ、から揚げ、チーズの盛り合わせ、やき
そば、スパゲッティ、野菜スティック、テーブル上に並びたてられた皿には
手をつげず、ひたすら酒だけを飲んでいた。店の隅、ウェイティングボックス
で待機している女の子全てに指名を入れテーブルに呼んだ。その後、決ま
ってフィリピン料理屋まで女の子達を連れて行く。慎治の店だけでも一回
に使う金額は二十万円からだった。女の子に惚れて店に通う客が落とし
ていく金額としてはゼロがひとつ多かった。それでも、そんなタイプの客は
めずらしくはなく、たまにいたが、瀬山みたいに頻繁に店には来なかった。
 はじめは慎治も景気の良い人だな、とぐらいに思っていたが、最近の瀬山
の遊び方は異常だった。
 何かに追われるような、何かから逃げるような飲み方をしていた。
 べろべろに酔って瀬山は自分で歩くこともままならない、それでも大勢の
店の女達を連れ、
「よし、次行くぞーー だぁれが来るかなフィリピン料理」
 箍が外れていた。自制という言葉を金庫に置き忘れ、鍵を掛けた飲み方
だった。

49 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/24 11:41
「店長」
 慎治は下に俯きリスト用紙になにか書き込んでいる。
「んっ」
 山崎は小声で、早口で、
「瀬山さん、来ちゃいました」
 慎治が顔を上げた時には、すでに山崎は入り口へと案内に立っていた。
「いらっしゃいませ」
 その日、何故か山崎の“いらっしゃいませ”という声が遠くで聞こえたよう
な気がした。
 慎治は瀬山から、一枚の名刺を貰っていた。名刺ファイルを括り瀬山の
名刺を暫く眺めた。
 そこには、誰でも知っているホテル、プロ野球球団を持つ大手デパート
流通関連の会社のマークが入っていた。瀬山はその大手デパート企業の
傘下で、慎治の住む県内で慎治も良く知っている食料品専門のスーパー
を十何店舗か経営していた。

50 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/24 14:02
 狭い夜の街で暮らしていると、毎日顔をあわせる者がいる。その中で
何故か気になる人物がいたりする。こっちが意識していると、向こうも意
識しているのか、お互いが知らず知らずのうち、あいさつを交わすように
なり話をするようになる。それは、歳の差は関係無く、地位、名誉も関係
なかった。
 慎治がこの世界に入ってすぐ、駆け出しの頃、ウェイターとして働いて
いた。夕方、店が開店する前、ほうきを手に外を掃いていると、毎日顔を
あわせる、三十代前半の何処から見てもサラリーマンにしか見えない男
がいた。いつしか、その男と店の前で立ち話をするようになった。
 ある日、慎治とその男が立ち話をしている所に他店の店長である先輩
が通りかかった。
 慎治はその先輩に挨拶しようとした。
 しかし、慎治よりも先にその先輩が声を出していた。
「おはようございます」
 もちろん慎治に向かって、先輩は挨拶したのではなく、慎治の目の前に
いるサラリーマン風の男に丁重に挨拶をしたのであった。
 後で先輩から聞いた話によると、そのサラリーマン風の男はこの歓楽街
で知らない者はいない大きな店のオーナーだった。慎治はそうやって一つ
一つ歓楽街に生きる者の顔を覚えてきた。顔だけでなく噂に上る名前も胸
に刻み込んできた。歓楽街で生きる術を身につけてきた。

51 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/24 14:07
 口さがない夜の住人達は噂話が好きだった。そんな住人達の口に上る
話題は、何処の店のオーナーは一代で何々ビルを建てたとか、何処の店
長は女好きだとか、たわいの無い話もあれば痺れるような話もあった。

 八月に入って降るような蝉時雨が聞こえる、暑い日だった。ステンレス製
の郵便ポストから半分飛び出ている朝刊を抜き、部屋へ持ち帰り広げた。
 地方紙の紙面は県内の事件、事故などが詳しく載っており誰か知った名
前がないかと記事に目を通していた。経済欄のページで慎治の手が止まっ
た。慎治も良く知っている食料品専門のスーパーが不渡りを出し倒産した
事を伝えていた。それは、小さな記事だった。


 口さがない夜の住人達は噂話が好きだった。

「あそこのフィリピンクラブ… 慎治って若い店長いるだろ…奴もいい死に方
しねぇだろな」
「なんでも、あこぎな商売してるらしい……」
「あぁ、慎治はやり手だからなぁ」
「……の店の常連が自殺したらしいぞ……」

 どすん、どすんと大きな足音をたて噂という怪物が、今宵も街をねり歩く。

52 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/25 01:57
 わたしはミルク色に夜が明けるビルの谷間を眼下に見下ろし上空を彷徨
いながら、愚かなそして滑稽でいて愛しい人間達の営みを眺める。
 わたしに体は無い、ふわふわと漂いし者。わたしはただの傍観者。

 夜の世界にしか生きられない若者は今日も闇の中で蠢き、もがき、一時
的にでも何かを忘れさせてくれる“もの”を探していた。
 どぶ川のすえた匂いがする歓楽街に、一輪のあだ花が咲き、香を漂わせ
人を寄せては“業”を吸い取り、枯れてゆく。次の日には、また新たなあだ花
が咲き誇り、歓楽街の夜を包み込む。業を支配する“者”が見えない灰を撒
き、花開かせ枯れさせる。蜂が香に誘われるように歓楽街の男と女は複雑
に絡み、縺れ闇へと沈みゆく。
 耳を澄ますと遠く近く、歓楽街の淀んだ空気に伝う音が“オト”に鳴り、
聞こえない筈の“オト”が地面を揺らす。
 どすん、どすんと大きな足音をたて業という怪物が街をねり歩く。

「わたしと、にげて……」
 耳元で囁かれた、それは甘く切なく俺に響いた。

53 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/25 02:06
 大勢の中でのひとりは辛く、それならば、はじめから一人のほうがいい。
俺はひとりで生きる事を決めた。


 田舎の百姓は土地に生き、土地に縛られ、土地で争っていた。畑と畑に
走る僅か幅三メートルのあぜ道は境界線を越え削られていた。
 百姓は一寸でも多く鍬を入れる。欲という業が土地の表面で踊り人を狂
わせていた。


 渋谷の交差点は昼間から人が溢れていた。驚きだった。まだ、学校に行
かなければならない年頃の若者達がスクランブル交差点を闊歩している。
 田舎の昼は子供は学校で大人は畑や家事で外には野良猫や野良犬、時
にはじいさん、ばあさんが道端の小石に杖を頼りに腰掛けている姿くらいし
か見かけなかった。俺が子供の頃、昼にあぜ道を歩けば学校にも行かず、
不良だと指を差された。

 東京のビル風が頬を撫でた、
 何処に行くあてもなく、頭の隅にあった渋谷という地名だけを頼りにきたと
いう感じだった。いや、来たというよりも、流され辿り着いたと言う方がぴった
りだった。大きな布製のバックを肩に背負い手のひらでファスナー部分を確
認した。バックの中に求人雑誌のごつごつとした感触が、指に残った。

54 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/26 04:22
 渋谷というこの広い街に自分の足で立ち、高いビルを見上げ思う。この街
では俺という人間を知っている者は誰もいない。人で溢れかえるこの大きな
街は俺という存在を誰ひとり気にする者はいなかった。それを望んでいた。
 なにもかも捨てるつもりで一生帰らないそう心の中を固め田舎を後にした。
 
 初めてスターバックスというコーヒー屋に入った、エスプレッソというのを
頼んだ。それは普通のカップより、一回り小さなカップに入れられ指の先で
軽く摘むと、香ばしく、そして濃厚なコーヒー豆の匂いがした。一口含むとそ
れはそれは苦く、驚きで暫く白いカップ見つめた。田舎者の表情が周囲に悟
られてないか、と、さりげなさを装い左右に首を振る。俺の事など存在しない
かのように店内の空気は流れていることを知り俺は安心して二口目を啜り
込んだ。今度はいつも飲み慣れています、という演技が出来た。
 こんな弱い俺は大都会で生きていけるのか? 不安が過ぎる。不安という
芽が育つ前に摘まなければならなかった。バックの中から求人雑誌を取り出
しページをめくる。今は格好悪いなどと気にしている時ではないと思った。
 
 ページの角を三角に小さく折った頃、カップの中にあるコーヒーはすっかり
冷めていた。三十分か一時間か時間の感覚はなかった。僅かな貯金を切り
崩す事が怖かった。
 店を後して、その日の夕方五時前に、ある会社へと電話を入れた。

55 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/26 11:30
 東京の西の外れ、あきる野市には、まだ緑が残っていた。保証人もなく
東京という広い街で十九歳の俺という人間の背景を詮索せずに、履歴書
という薄っぺらい紙一枚で雇ってくれる所は新聞販売店くらいだった。

 体はキツかったが仕事自体は難しいこともなくすぐに慣れた。住む部屋
の家賃も販売店が半分払ってくれた。俺は残りの四万円を払えばよかっ
た。2LDKの間取りは広く、俺ひとりでは贅沢なような気がした。

 働きはじめ三ヶ月もすると安定した収入に安心をし、田舎から持ってき
た貯金を全て叩き中古の車を買った。仕事のある日は配達用のバイクを
そのまま乗り、部屋まで持ち帰ってよかったのだが、休日はバイクを販売
店に置かなければならなかった。普段はちょっとした買い物や私用に使っ
たり出来るが休みの日は足が無く不便だった。その為、俺にとっては冒険
だったが今後の事も考え購入を決めた。
 もっとも、保証人の関係でローンなどは組めず、車検が一年残っていた
古い右ハンドルのフォルクスワーゲン・ジェッタを現金で買った。
 住民票はすでに、あきる野市に移しており、車庫証明やらなんやらと書
類上の手続きに一週間程かかった。
 購入を決めてから十日程で紺色の車体をしたジェッタがアパートの駐車
場に収まった。
 休みの日は近くにある横田基地を国道十六号線から眺め福生という街
へ遊びに出かけた。

56 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/26 12:20
 夜の横田基地は、点々と青い光が滑走路の位置を示す為、規則正しく
走っていた。俺はハンドルを握り国道十六号から眺めるその景色が好き
だった。
 ジェッタは独特な排気音がした。購入する前に中古屋のおやじは事故
歴と不具合のある部品を、ボンネットを開け説明てくれた。

「タイミングとる部品が調子悪くて、四気筒あるピストンのひとつが死んで
るんだよねぇ、車検は一年残ってるけどねぇ」
 売る気がないのか、それとも売っても利益が出ないのかジェッタの車体
は中古屋の隅におかれていた意味が、おやじの言葉で分った。
「プラグコード4本とタイミング幾ら位しますか?」
「うっん、そうーだなー、部品だけなら全部で三万五千円から四万円って
とこかなぁ、自分で直せるの?」
「ええ、道具さえあれば……」
 整備士の免許を持ている俺はそう答えた。
「現状渡しでよければ、持っていきなよ、部品を自分で揃えれば、そこの
道具使っていいよ」
 中古屋のおやじは、背の高い建物を指差し、そう俺に言ってくれた。

 そんな経緯で破格の値段で、このジェッタを手に入れる事が出来た。

57 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/26 13:53
 新品のディストロビューターは規則正しく、タイミングを取り続けプラグ
へと信号を送り、プラグはその電子信号を火花へと変換する。ピストン
が収まる四つの筒は小さな爆発を繰り返し、車体の推進力へと変える。
アクセルをぐっと踏み込むと、レスポンスをスピードとして返してくれた。
 人間は裏切ったり嘘を言ったりするが、機械は俺を裏切ることはしな
かった。しかし、それとは別に友達もなく、東京の西の外れで独り過ご
す夜は長く、いつしか俺は福生の夜の街へと足を運ぶようになって
いた。場末のフィリピンクラブは気取る事もなく、背のびする必要もなく、
俺を気軽に受け入れてくれた。季節は冬将軍が去り、一雨ごとに空気
は緩み、テレビの天気予報では桜前線が話題にのぼる頃だった。

58 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/26 19:12
 店の前にジェッタを横付けすると呼び込みの従業員がつかつかと寄り
「お車移動いたしますよ」
 よく知りもしない、人間に車を預ける気にもならず、
「駐車場あるんですか?」
「はい、店が借り受けている所があるのですが場所を説明するのに、ち
ょっとややこしいんですよねぇ」
「店で遊んで行くから、隣に乗って駐車場の場所教えてよ」
 俺は従業員にそう言い、運転席側から上半身を助手席側にねじりドア
のロックをはずした。
「すいません、失礼します、それじゃ道を説明しますんで」
 そう言い、従業員は助手席へと乗り込んで来た。狭い路地裏を右へ左
とジェッタのハンドルを切り、二、三分走らせると二十四時間営業のパー
キングが見えてきた。
「あっ、あそこです」
 従業員と俺は店まで歩きながら、特に話しをするわけでもなく無言だっ
た。なにか、会話の糸口を探していると、従業員のほうから、
「うちの店、初めてですか?」
「ええ、フィリピンクラブも生まれて初めてです」
 看板にフィリピンクラブ・ファンタジーとあるのを読んで知っていた。
「あっ、そうですか、フィリピンクラブ自体…… そうですか…… 女の子
達は陽気な子ばっかりで…す」
 そう言い従業員は目尻に皺を寄せた。そうこうするうち店に着いた。
 それが、全ての始まりだった。

59 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/26 21:00
 店の入り口の脇、最も目につく壁に透明なアクリル板で取り付けられ
た出窓の様な箱があり顔写真が十枚ほど飾ってあった。
 その写真はアクリルの箱の中で蛍光灯の白い光で照らされていた。
「どうぞ」
 とドアを開け待つ従業員の言葉に、写真が飾られる箱の前を通り過ぎ
店へと入った。
「いらっしゃいませ」
「いらっしゃいまほー」
 などと店内のあちら、こちらから笑い声とともに明るい声が聞こえた。
従業員は俺の前を歩きテーブルへと案内してくれ、
「指名は……」
 と言いかけ、慌てて、
「はじめて…… ですもんね、一番かわいい子つけます」
 好感の持てる、そのしゃべり方というか雰囲気に俺はなにか少し安心
出来るものを感じた。
「いらっしゃいマセ」
 どこかイントネーションの違いに違和感を覚えるが流暢な日本語で、
「はじめて……デスカ? お店」
 俺は女の言葉に頷いた。たぶん俺の表情は固かったのだろう。俺より
年上だと思われる女は、やわらかく微笑んだ。従業員が一番かわいい
と言うだけはあると思った。びっくりする程の美形だった。

60 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/26 21:10
 栗毛色のショートカットに、スパニッシュの血が混じるのか色白の肌
でグラスにビールを注ぐその指は華奢で、壊れそうで女を感じさせた。
 俺は緊張を解く為、グラスを煽る。
「カラオケ…は?」
 俺は首を横に振った。一瞬、残念そうな表情が女の瞳に浮かび、打ち
消すように俺に向かい微笑んだ。
「もう少し飲んでから」
 そう、言い訳するように、杯を重ね、言葉を継いだ。
「日本語上手いですね」
 女は少し疲れたように、
「日本長いから、この店で五回、ワタシ達フィリピン、タレントは半年日本
に居て、一度、フィリピン帰るでしょ、また、日本来る、半年、それの繰り
返し」
 そう言い、寂しそうに目を伏せ、次に顔を上げた瞬間、揺れる前髪の
奥に、二重の大きな瞳がいたずらさうに笑っていた。
 映画のワンシーン、そう、演技を感じさせるものがあった。
「女優みたいだね」
 思わず口をついた。
「ジョユウ、アクトレス? ワタシ、映画でたことあるよ、フィリピンの」
 女の薄いグリーンの瞳が笑った。俺も笑った。
 冗談だと思ったからだ。

61 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/26 21:26
 飲むほどに酔いが回り、饒舌になる自分がいた。女もいつしか小さ
なグラスでビールを飲んでいた。俺はこの女と波長が合うと思った。
「ワタシ、4月20日に帰る、フィリピン」
 後、十日程だった。
「そう、家族、ファミリーと逢えてるから、うれしいでしょう」
 弾けるように瞳を輝かせ、
「そうね、少しうれしい、けどネ……、すぐ、また日本くる、たぶん5月」
「この店に?」
 俺は期待を込めて聞いた。
「この、お店じゃない、次ハ***県のお店」
 ***県は俺の田舎だった。
「次のお店で、逃げるの」
 女はさらっと言った。俺は女の言葉を聞かなかった事にし、
「また来るよ」
 もともと俺は酒が強い方ではなく、帰りは車を運転しなければなら
ない事を考えた。
「もう帰るの? じゃあコレ」
 女はシュガレットケースから小さな名刺を出し俺に手渡した。その
名刺には、バランスの悪いカタカナで、“セシル”と手書きであった。
「携帯アル?」
 そう言いながら、俺の目の前にボールペンを差し出す。
 俺は自分の携帯の番号を丸い紙のコースターの裏に書き込んだ。

62 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/27 15:11



 休み明けの身体はダルく昨夜の酒が残っていた。畳に敷かれた布団
から抜けだし台所の冷蔵庫から、500ml入り紙パックのコーヒー牛乳を
取り出し飲んだ。冷たい感触が喉を過ぎ、甘ったるい味が舌に残った。
 変則的な生活リズムを身体が一旦受け、消化しきれない疲れが溜ま
ると一日の内、何時間でも眠れてしまうような日があった。喉の渇きで、
目が覚め、空腹感で起き、飲む喰う、そしてまた深い眠りへと落ち込む。
次ぎに目が覚めると外は暗く夜の八時、九時だな、と知覚するが実際
は朝方近い夜中の三時だったりする。
 新聞配達という仕事は体にきつかった。夜中の二時頃、起きて三時に
は販売店へと出勤した。折り込み広告のチラシを配達部数に合わせ、朝
刊に挟む。自分の受け持ち地域へとバイクを走らせ配達をし終えるのが、
朝の七時半過ぎになる。それから部屋へと戻り身体を横にするが、なか
なか眠る事は出来ず、結局起きだし、だらだらと時間を過ごしてしまう。
午後の二時なると販売店に行き拡張という名の営業へと追いやられる。
バイクに宣材と言われる、タオルやら洗剤やらかわいいキャラクター商品
やら野球の観戦チケットやらビール券やら雑多な物を積み込み、配達地
域を駆け巡る。夕刻四時に販売店に戻り、夕刊の配達が始まる。配り終
える頃、外の空気が夜の訪れを告げている。

63 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/27 15:17
 夜七時、八時には部屋に帰るが、日に何度も部屋と販売店を二回、三
回往復する身体は一日の終わりなのか始まりなのか混乱するらしく、頭
は眠いが身体が睡眠を拒む時がある。うとうとした、と思うと夜中の二時
を知らせる目覚まし時計のけたたましいベルの音が部屋に鳴り響く。
 そんな、変則的な生活にも慣れたが、ときたま身体は激しく眠りを要求
した。毎日、毎日体を動かすことは俺にとって、やな事を思い出さずに済
み心の平安を保つことであり、なによりの薬だった。しかし、身体というも
のは順応性が高く変則的なリズムに打ち勝とうとする。結果、俺に余分
な時間を与え、俺はその余分な時間を埋めるべく夜の街に通うのかもし
れなかった。考える時間なんかいらない。その考える余分な時間を埋め
る事がどれだけ大変か。いっそ誰かに、俺の余分な時間を分け与えたい
くらいだ。そんなことを思う反面、生きる本能は身体に染みていて、風呂
に入ったくらいでは落ちなくて、どうしようも無く。俺は生きていた。

64 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/27 21:11



 繰り返す時間の中で靴の底は減り、その減った分だけ季節は進み、
 いつしか桜の花は散り、新緑の五月を迎えていた。

 五月も半ばを過ぎたある日、俺の滅多に鳴る事の無い携帯電話が鳴
った。ワン切り業者だろうと構わず放っておいた。着信音は二回、三回
と続く、あれっ、と思い手に取り電話に出てみると、
「モシモシ、わたし分かる?」
 その聞き覚えのある、イントネーションの違いに、
「覚えてるよ、セシルでしょ?」
 携帯電話の向こうに、ほっとしたような雰囲気が伝わり、
「よかった、わたしドキドキしてた」
 短い言葉に、セシルの今の気持ちが感じられた。
「いつ、日本に来たの?」
 酒も入っていない俺が女と自然体で言葉を交わしていた。
「うん、昨日ネ、成田に着いた、逢いたいネ」
 声音がさわやかに響き、笑みを含んだ躍動感が感じられ俺の脳裏に
セシルの笑った顔が思い出された。
「今度の休みに逢いに行くよ」
 自然となにも考えず出た言葉だった。

65 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/28 12:50


 一目見て高そうな店だった。重厚な幅広の黒いドア、床の大理石に俯
く俺の不安そうな顔が映っていた。
 セシルのいる店はすぐに見つける事が出来た。ここまで来たのだから
引き返すつもりはなく、ただ、舞台にあがる緊張感というか何というか誰
に後ろから背中をちょこんと押してもらいたい、そんな気分だった。
 えぃ、ままよ。ドアに手をかけた。
「いらしゃいませ」
 白のYシャツに蝶ネクタイのウェイターが迎えてくれた。案内をするウェ
イターの後ろで、俺は店内をさっと見渡した。
 テーブルに落ち着き、おしぼりを手渡され、飲み物をどうするか型通り
聞かれ、
「女の子の御指名はございますか?」
 俺はセシルの名を告げた。店内は遅い時間とあり空いていた。丁度、
客が引けて一段落したというような雰囲気だった。店内は狭く六つある
席の一番奥に、一人客がいるようだった。俺を含めて二つの席が埋まり
四つのテーブルが空いていた。
 ふわっと香水が、かおった。
「オハヨウ」
 ショートカットの髪が揺れ、ボーイッシュな挨拶に照れが含まれていた。
セシルだった。

66 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/28 12:52
「わたしと、にげて……」
 大理石のテーブル上にアルコールランプの炎が揺れ、オレンジ色の炎
は影を創りあやしく揺れ動いていた。耳元で囁かれた、それは甘く切ない
香りがした。セシルの瞳は真剣で、真っ直ぐだった。
 酔った頭の隅で、俺の人生をこの女にくれてもいいかな、っと思った。
「いいよ、逃げてやる」
 店に腰を落ち着けてから一時間も経たない。しかも目の前にいる女と逢
うのは二度目だった。正気の沙汰じゃないな。俺は心の中で苦笑した。

「いらっしゃいませ」 ウェイターの声が響き、
 店内の空気が動いた。
 二人連れの客が入ってきたと思うと、俄かに店内は活気を帯びソファー
とテーブルが寄せられ大きな席が作られてゆく。
「失礼します、セシルを少々お借りします」
 淡いブルーのシャツにシルクのネクタイをした二十代中頃の従業員が、
片膝を床につけ、丁重に頭を下げていた。
「ええ、どうぞ」
 従業員は俺の言葉に頷き微笑んだ。その目の奥は笑っていなかった。
すぐに別の女が俺のテーブルへとついた。

67 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/28 12:55
 新しくついた女は無口であまり、しゃべろうとはせずただ俺の横に座る
だけだった。時折、思い出したように、
「ナニカ、歌う?」 とカラオケ本を差し出すか、
「から揚げタベテいい?」
 その度に俺は首を横に振るか頷くかするだけで良かった。
 夜も更け遅い時間に入ってきた二人連れの客は大きなテーブルに店
の全ての女達を侍らせ、賑やかで楽しそうな声をあげていた。ネクタイを
頭に巻き、しきりと、はしゃぐ年配の客に連れの三十代後半の男は苦笑
浮かべてはいるが、案外楽しんでいる様子でもあった。
 そんな年配の客の、はしゃぎっぷりは何処か子供のようで憎めない物
があった。
「おい、あんちゃん飲んでるか? 若いんだからもっと飲め!」
 テーブルの向こうから大きな声が飛んで来た。三十代の男が目線で、
俺にあやまっていた。
「失礼します」
 ウェイターが琥珀色の液体が入ったグラスを持ってきた。
「あちらのお客様からです」 そう言い年配の客を見る。
 俺は見ず知らずの人間から酒を奢ってもらう訳にはいかないので、
戸惑っていると、ウェイターは
「遠慮なさらなくてもよろしいかと…思います」

68 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/28 13:01
 俺も角が立つといけないと思い直し、頂く事にした。年配の客に目で
挨拶をして、琥珀色の液体を舐めてみた。それは、いままで飲んだこと
のない味だった。口あたりが良く、すうっと喉を通った。
「これなんて言う酒なんですか?」
「ヘネシーです」 ウェイターは短く答えた。
「それでは、ごゆっくりどうぞ、失礼します」 
 一礼して厨房のほうに行ってしまった。隣の女は、
「ヘネシー、おぃスィーいネ」 そう言いながら、から揚げを頬張っていた。
俺は何故かその女の言葉に笑いそうになってしまった。
 賑やかなテーブルから女達の声に交じって、
「瀬山さん……も、もっ、もう飲めんです」 連れの三十代の男がそう言
っていた。
 そんな声を傍らに聞きながら、俺は頭の隅で別の事を考えていた。
 この街は県内で一番の歓楽街だった。俺が生まれ育った土地は同じ
県内でもこの歓楽街から北に位置する貧しい農村地だった。
 母親の連れ子だった俺は、義親父の親戚に囲まれた狭い土地で大人
の顔色を窺いながら生きていた。

69 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/28 13:06
 小学校低学年の頃を思いだす。当時、母親は近くの工場にパートに
出ていた。俺は夕方学校から帰ると義親父の実家に行く。母親が仕事
を終える夜、八時まで毎日、義親父の実家で母親を待つ。
 義親父の兄が言う。
「こんな小さな子供、夜の七時、八時まで家にひとり置いとくんか? 飯
はどうする、周りの者に笑われるじゃろ」
 義親父の兄は母親に怒ったように言った。義親父は仕事の帰りは遅く
いつも、夜中だった。
 それから毎日、俺は義親父の実家で夕飯を食うことになった。
 夕食の卓を囲む、義親父の兄、兄嫁、義祖父、義祖母、歳の離れた、ふ
たりの義理の従兄弟達、血の繋がりのない人間達に囲まれ、食べ盛りの
俺は、おかわりください、という言葉が言えずいつも茶碗を引っ込めた。
 そんなある日、夕飯も食べ終わり卓の上は片付けられ、従兄弟達とテレ
ビを見ていた。隣に座る義祖母が、俺の顔を眺め、ぽっりと言った。
「親戚中、誰れん顔に、似てもいないんじゃのぉ」
 その義祖母の言葉は、小学校低学年の小さな肩の俺をみて不憫に思
い出た言葉なのだと今は思えるが、当時の俺は聞こえないふりをし、テレ
ビ画面を見つめていた。義親父の兄の本家筋はこの狭い土地では白い
漆喰の蔵が建つほどの名家だった。義親父の親戚筋には町議や町の顔
役やらとがいて血の濃い者同士が狭い土地で固まる。俺という存在は、
この土地では日陰に生きなければならない、ただのやっかい者だった。
 正月や祝い事、親戚の集まりの中で、大勢の中でのひとりは辛く、それ
ならば、はじめから一人のほうがいい。と思うようになった。

70 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/28 13:12
 俺は全てのものから逃げているのかもしれない。そして、またセシルと
当てのない逃避行の旅へと出ようとしている自分がいた。それが、どんな
事を意味するか分っていた。この店の女と逃げるということは店側に追わ
れ、ヤクザ者に追われるという覚悟が必要だった。この県で生まれ育った
俺は、この夜の歓楽街を支配している組織の名前くらい耳にしたことがあ
る。全国に名が通る系列傘下に属する組織暴力団だった。

 店内は盛り上がっていた。ほんの十分か二十分、考え事をしていた俺
をスピーカーから流れるダミ声の演歌が引き戻してくれた。ネクタイで捻り
鉢巻をした年配の客だった。
「やきそば、タベテいい?」 
「ああ、いいよ」
 
 今日はセシルが俺の席に戻ってこない事を悟り、会計を済ませ店を後
にした。

71 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/29 16:18
**


 出逢いに意味があるのならば、起こる出来事に意味があるのならば、
神様は俺を何処に連れていきたいのだろうか?

「ここに、住所と名前、電話番号をご記入ください」
 俺は携帯電話を新たに一つ購入する為、携帯ショップにいた。
「今日、お持ち帰りになりますか?」
「はい」
「何か身分を証明するものはございますか?」
 ジーンズの後ろポケットに慌てて手をやりサイフから運転免許証を取り
だし渡した。
 書類を一通り書き終え、カウンターを挟んで対面に座る店員に書類の
向きを見やすい様、くるっと回しその上にボールペンを置いた。
 女の店員は書類に不備がないか俺の運転免許証を片手に目を通して
いる。

72 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/29 16:24
「運転免許証の現住所とこちらに書かれた現住所が違われてますが?」
 あ、しまった。という表情が、おそらく顔にでただろう。俺はゆっくり言葉
を選んで店員に説明した。
「田舎から、こっちに出て来て住民票は移したんですが、免許証の住所
変更を、まだしていないんです」 
 店員は納得したよう頷き、
「こちらと、こちらと、えーっとあとここにも印鑑もらえますか」
 事務的に話を進める声の合間に紙が捲られる音がした。俺は重要な
ことに気付いてしまい、そのことで頭がいっぱいだった。店員は何か説
明をしているが、俺はうわの空で聞いていたが頭の中はフル回転だっ
た。
 住民票をどうするか?
 これから、セシルと逃亡生活を始めるには住民票移動はヤバすぎる。
店側は俺という存在をまだ知らない。しかし、俺は一度、店に行ったこと
があり、セシルを指名している。そこから俺という人間が割り出され浮上
する。そして、セシルの来日歴と照らし合わせセシルが勤めていた福生
の店が簡単に割り出され、福生の店に俺の背格好、顔の特徴、年齢な
どを問い合わせれば、俺は追われる者として候補者の数に入れられる。
俺は困ったことに福生の店で従業員に仕事は新聞配達をしているという
ことを何かの話題の時に、うっかり話したことを後悔した。

73 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/29 16:28
 福生はもとより、羽村市、昭島市、あきる野市、八王子市と新聞販売店
をしらみつぶしに当たれば、特徴のある紺色のジェッタを乗っている人間
などすぐに見つける事は出来、セシルと同時期に行方をくらませた男とし
て、追われる者と確定される。
 追う者は、まず住民票から調べるだろう。そして日本の役場、市役所は
他人の住民票を本人に代わって代理人として簡単に取ることが出来た。

「ありがとうございました」 俺はDoCoMoの文字が入った真新しい紙袋を
さげ携帯ショップの自動ドアが開く反応の鈍さに一瞬足を止められ、通り
へと出た。歩道には、色とりどりの傘の花が咲き、空はどんよりと灰色の
重い雲が、空全体を低く覆っていた。梅雨の足音がゆっくりと日本を縦断
し百姓に恵みの雨をもたらす為、日本の空は泣いていた。
 それは、この先、俺の辿る道を暗示するかのように、重く厚い雲だった。

74 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/29 21:36

 セシルとの連絡用の携帯電話を手渡したいのだが、無闇やたらと歓楽
街でセシルと接触は出来ない、どこで誰に、セシルと逢っている所を見ら
れるかわからない危険があった。
 電話口の向こうにいるセシルに、いっその事、
「郵便で送ろうか?」
 と言うと、
「ダメ、店のスタッフ、チェックする」
 タレントの寮に送られてくる郵便物は全て店側の検閲が入るという。俺
は思案に暮れていた。歓楽街周辺の地理を頭に浮かべた。JR駅前、私
鉄駅、真っ直ぐ伸びる大通り、そうだ、
「えき、駅だ」
「エッ、なに?」
「駅だよ、駅、コインロッカー」

75 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/29 21:39
 七月七日、七夕の日、時間を決めて俺は私鉄駅前のコインロッカーに
携帯電話本体と充電器を入れ、鍵を駅前のタバコ屋のおばあちゃんに
預けた。おばあちゃんには、後で、こういう歳格好のフィリピンの女の子
が取りに来ます。本人確認として鍵番号を女の子に教えておきますので
本人に鍵を渡す前に番号を質問して下さい。番号を正しく答えられたら、
鍵をわたしてください。と頼み、セブンスターの十箱入りカートンを一つ求
め、一万円札を渡し、お釣りを受け取らずタバコ屋を出た。

76 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/30 11:57
***



 夜中の八王子インターは横一列に並ぶ料金所に点々と車列のテール
ランプの赤が暫く灯り、そしてすうっと前へと車体は移動したかと思うと、
すぐに小さくなってゆく。料金所の狭い箱の上、水銀灯のまわりを蛾や小
さな羽虫が短い夏の夜を楽しむかのように飛び交っていた。
 車窓を開ける時、キュキュと古い車体とガラスが擦れる音がする。料金
所の明かりで車内にさっと白の光が斜めに射し、俺の横で寝息をたてて
いるセシルの顔を照らした。
 俺は車内から手を伸ばし、少し見上げた位置にいる、帽子をきちんと被
り制服を着た年配のおじさんから通行券を受け取った。それは逃避行の
旅へと続く通行券でもあった。真新しい券には中央高速八王子インターと
記載されており、入り口のインターである場所は黒の文字で記載してある
が、出口という答えは自分で決めなければならなかった。
 料金所のおじさんは夏の夜を楽しむかのように仕事をしているように見
え、このおじさんも人里離れた山の中での料金所勤務を終えれば、家で
待つ家族がいるのかな? 何故かそんな事を思ったりもした。
「うーんっ」
 助手席の倒されたシートから、セシルの伸びをする声が聞こえ、俺はア
クセル踏みジェッタの車体を夜の闇にすうっと滑り込ます。

77 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/30 18:16
 高速道路脇の等間隔に設置された街路灯のオレンジの明かりが、パッ
パッとフラッシュのように車内に飛び込む。
「起きた?」
 半身を起こし、助手席の窓ガラスを鏡がわりにして髪に手をやりながら
俺の言葉に黙って頷く。斜めから覗く横顔に寝乱れた髪が妙に色っぽく、
これは夢なのではないか? そっと右手をハンドルから離し、ふとももを
ゆっくり、つねってみた。普通に痛かった。
「ぃ…た」
 ちょっと言葉にだしてみた。
「エッ、なに?」
「いや、なんでも……ない」
 横を向くと視界に入る脚は刺激的で、何かドキドキして俺は戸惑う。助
手席に座るセシルのピッタリとしたジーンズ、丸みを帯びた腰のラインか
らふとももの裏側に沿って手の届く位置にある。深夜の車内はタイヤの
路面を蹴るゴーッという音に交じって俺のスケベ心が空回りしていた。
「海みたいネ」
「うみ?」 
 なんとなく富士山、河口湖方面に走らせていた。
「沼津ッて、遠い?」

78 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/30 18:28
 どう説明しようか、高速道路は英語でなんて言うんだっけ?
「遠くはない…けどハイウェイーが違う、ここは中央ハイウェイーだから、
東名ハイウェイーなら東京から一時間くらいかな」
 そんな説明で分ったのか、分らなかったのか取り敢えず納得した様な
表情だった。
「じぁさあ、千本浜行こうよネ」
「千本浜って沼津にあるの?」
「うん、太陽がネ、落ちる時が綺麗だヨー」
 身を乗り出し俺に言う。唇がすぐそこにあった。俺の頭の中では夕日
のオレンジ色がピンク色に変換されてしまい、それは間違いなくセシル
の唇のせいだった。

 セシルの説明によると静岡県沼津市に千本浜という海岸があるらしく
初めて日本にタレントとして来た時にその浜で遊んだらしく、もう一度そ
の浜に行って、海に沈む夕日が見てみたいと言う。
「ああ、いいよ、千本浜に連れてってあげる」
 これで当面の目標が出来て俺は何故かホッとした。正直、何処に行く
当てもなく、今日泊まる場所もなく、ただ闇雲に手と手を握り合い走り始
めてしまった。
 初めにすごろくの賽を振ったのはセシルだった。コロコロと転がるサイ
コロの出目は静岡県沼津市・千本浜とでた。

79 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/30 21:07
 山間を抜ける中央道を相模湖、上野原と過ぎ、勾配のきつい坂を越え
談合坂パーキングで一旦休憩をとる事にした。車内灯の薄暗いあかり
に近づけるよう地図を開き、今後の道順を頭に入れていると、左頬にふ
っと、何かが触れたと思うと、ぎゅっと押しつける、やわらかな感触。
「トイレいくネ」
 悪戯な笑顔でそう言い。
「……」
 呆然とする俺を残し、ドアをバタンッと閉めパーキングの闇へと身体を
滑り込ませ歩いていってしまった。
 手のひらで自分の頬をなでてみる。指の先に薄い紅色のルージュが
ついていた。
「いきなり… は反則だろ……?」
 地図を睨んでいるが頭に入らない、
「えっと、河口湖インターで下りて国道139号線を富士市まで走って、
それから、うんっと、東名高速の富士インターに……乗れ……ば」
 ガチャっとドアの開く音がして、ふわっと香水が、かおった。俺は地図
から顔を上げた。セシルの片手がひょいっと動き、缶コーヒーが放物線
を描き落ちる。咄嗟の事で俺は缶コーヒーを取り損ねた。
「へた」
 グリーンの瞳が笑っていた。俺は足元に転がる缶コーヒーに視線を落
とし、この女の尻にしかれる予感をひしひしと感じていた。パーキングの
樹木が紅い月を背負い、葉が風にカサカサと音をたてている夜だった。

80 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/31 07:26
 人間とは欲の深いもので、自分に無いものを追いかける。俺はセシル
の陽気な所に惹かれる。それは持って生まれたものなのかフィリピンと
いう地が授けるものなのか農耕民族の血を受けた俺には無い、異質な
ものだった。

 河口湖インターを下り、国道139号線の端にはファミレスや大きな洒落
た造りのテパートや綺麗な建物が並び観光地然とした風景が流れる。
 それも暫く走るとすぐに辺りは鬱蒼とした木々が生い茂る山道となった。

いつしか隣ではセシルが寝息をたてていた。安心しきった寝顔は子供の
ようだった。セシルにとってこの日本という異国の地では目に見えない緊
張の糸が解ける僅かな時間は寝ているときにしか無いのかもしれない。
 鳴沢村、上九一色村と物の怪が出てきそうな山間の道は、俺の思考を
マイナス方向に導いてくれるのにはそう時間は掛からなかった。
 隣は富士の樹海が黒く口をあけ静かに佇んでいた。しかし、いま俺の
横で寝息をたてている存在が俺のマイナス思考を中和させる。それは、
不思議な感覚だった。そこに、いる、というだけでそこに、いる、と感じる
だけで、何故心強くなれるのだろう?

81 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/31 10:25
 漆黒の闇は、やがて東の空から紫色を帯びミルク色へとその姿を変え
夏の太陽が顔をのぞかせる。
 沼津市に着いた。インターを下り市内に、向かう途中の道路沿いには
あじの開き直送します、みやげ、などの文字が躍る看板を見かけ、あぁ、
沼津という所は漁港の街なのか、とあらためて知らされた。

「海にいく前に、仲みせにいこゥ」
「なかみせ?」
「うん、仲見世商店街、アーケードのあるおもしろいトコロ」

 朝もまだ早い時間で、二人はぶらぶらとシャッターが下りている商店街
を歩いた。道行くサラリーマン、自転車の前カゴにかばんを入れ学校へと
急ぐ学生達、それら人々の波に俺とセシルは逆行していた。それは世間
からはみ出している様で、それでいて本人達は漂っている様で、あやふ
やな存在だった。ミスタードーナッツに入り朝食を取り、映画を観た。話題
のハリウッド映画の冒頭シーンを僅かに記憶に留め、
 俺は映画館のギシギシと鳴るシートに身を沈め眠りへと落ちた。

82 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/31 12:00
 千本浜の白い焼けた砂が足裏に痛く、ビーチサンダルを持たない俺達
に声を上げさせた。
「熱っい」
「アツイッネ」
 濡れた波打ち際を歩く俺の背を、後ろから押すセシル、バシャっと水し
ぶきをあげる俺。
 全身ずぶ濡れの俺を指をさし笑うセシルは悪戯な小悪魔だった。俺は
周囲に首を振り海岸に人がまばらな事を確かめ、Tシャツを脱ぎ、ジーン
ズも脱ぎ捨てトランクス一枚で泳いだ。海の中から顔だけ出し眺めるセシ
ルは、
 上は白のTシャツにバスタオルを羽織、下は薄い茶色の短パンに着替
えた、ふとももに海水の水滴が玉となりきらきらと光っていた。
「わたしも、オヨギたーい」
 そう言い、タオル放り投げ、そのままの格好で海に入り俺の傍に来た。
白のシャツに透けるブラジャーが眩しくて、太陽が眩しくて、

83 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/31 12:09
「ブラいらないネ」
 そう言い、シャツの裾から手を入れはずしてしまう。
 ぷかぷかと浮かぶ上下する胸元に、透ける素肌に、
 夏の容赦のない太陽が蒼い空から光をさんさんと惜しみなく均等に
誰にでもそして俺にも降り注いでくれていた。
 白のシャツに透ける乳房は、マシュマロのようにやわらかく、そして唇
は潮の味がした。俺の下半身は完全に反応していた。セシルの両手が
あやしく、ゆっくりと俺の下半身にまわる。それは、ほんの一瞬だった。
 セシルが俺から離れた。右手に俺のトランクスを持ち逃げた。海の中
に俺ひとり残し、さっさと海から上がってバスタオルを身体に巻き勝ち誇
った笑いを俺に向けている。

 やっぱり、この女は小悪魔だった。

84 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/31 20:23
 神様は毎日、毎日、絵を描くことで忙しい。千本浜から車で少し移動
した。松林の中を走る小道を抜け、湾沿いに高いコンクリートの防波堤
が見える。この場所は景色が有名なのか防波堤の下には大きな駐車
場があった。
 駐車場に車を置き、階段を登ると防波堤の上にはゆったりとした幅五
メートルくらいの道が長く続いていた。そこかしこに夕涼みをするカップル
や犬の散歩をしている主婦らしき人、仲の良い老夫婦、近在に住む小学
生達が自転車をとめコンクリートの道端でミニカーで遊んでいた。
 時折、吹く海風が潮の香を運び鼻をくすぐる。
「気持ちイイネ、あそこに座ろッ」
 俺の腕を引っ張る。
 ゆるいカーブを描きながら防波堤の道は長く続いており、どこからでも
斜めにコンクリートを伝い砂浜に降りられるようになっている。
 俺達はその中間あたりに座った。周りを見ると他のカップル達も俺たち
と同じように膝を組み体育座りをしていた。
 点々と距離をおき座るカップル達の影が色濃くなり、海に反射する紅は
海岸線をあかね色に染めた。防波堤にいる人々は忙しい生活を忘れる
かのように神様の絵を見ていた。太陽がすべて沈んでも周りはまだ仄か
に明るかった。海の家にたつ、氷と書いた旗が風にたなびいていた。

85 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/31 21:29



 東名沼津インター近く、小高い丘のようになっている所に集まるように
明かりが灯り、ラブホテル群が建ち並ぶ。ゆるやかな坂を上りきった先は
ラブホテル街だった。前を走る車のテールランプが灯りスピードが落ち、
吸い込まれるようホテルの中へと消えた。その消えた車のところまで、
ゆっくりとジェッタを進めた。
 白いお城のような建物で入り口一面に敷き詰められた薄茶色とこげ茶
色のレンガはランダムに貼ってあり見事に調和がとれ照明の光の中で、
非日常を演出していた。建物自体は、木々に隠れるように建つが派手な
看板の下に青文字で空室の情報はしっかりと道ゆく車に伝えていた。

86 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/08/31 22:35
 俺は前の車が入ったように左にウインカーを出しレンガの敷地をぐる
っと回り込むようにして建物一階部分にある駐車場に車を乗り入れた。
車から降り狭い通路を抜けると直接、部屋に入れるドアがあった。
 俺はこういう所に来るのは初めてだった。セシルに話してはいないが
実は童貞だった。部屋に入りドアを閉めると自動ロックが勝手に掛かっ
る。びくっとした表情を隠すのに精一杯で、照明はなにか薄暗くあやしい
ムード満点で、それでいてわくわくさせる雰囲気だった。ベットサイドに
並ぶスイッチをいじっていると、
「お風呂はいる? お湯いれてくるネ」
 な、なんと、ベットからはガラスを透して風呂場が丸見えだった。
 ありえん、こんな造り日常生活じゃありえん。がうれしい。うれしすぎる。
頭の中の小人がはしゃぎまわる。もう一人の小人が、
「落ち着け、落ち着け」 と言う。
 俺は思わずベットの上に水泳の飛び込みの要領でダイブした。
「なにやってんノ?」
 頭の上に、? マークをつけたセシルが立っていた。
「い、いや、な、な…にも……」
 俺は誤魔化す為、タバコを一本抜きライターの火を近づけた、吸い込む
あれっ、おかしいなもう一度吸い込む。
「逆ダヨーー」
 フィルターに火をつけていた。俺はやっぱりダメ男なのかもしれない。
「お風呂いっしょに入ろッ」

87 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/01 10:11



「失礼します、おまちどうさまでした」
 テーブルの上に二つのモーニングセットが並んだ。朝の澄んだ光が大
きなガラスを通過してファミレスの店内に充満していた。
「お腹、空いたネ」
 厚切りトーストを頬張り、どんぐりを口いっぱいに頬張ったリスみたいな
瞳を俺に向け、
「沼津のタレントはネ、夜のディズニーランドって呼んでるノ」
 さらっと言った。ラブホテル街は夜になるとライティングに浮かぶ白い城
や、かわいらしい建物が並ぶ。部屋の中には人を日常から開放させる
工夫が照明をはじめそこかしこに施され大人のディズニーランドだった。
「わたしはネ、日本でお金を稼ぐノ」
 俺は頷く、
「フィリピンの女はネ、おとなしい子は香港に行くノ、香港でメイドの仕事
をするノ、気の強い子ばっかりが日本にくるノ、フィリピンの男はネ、二年
三年とブルネイに行って道路を作ったりネ、ゲンバの仕事をするノ、それ
ともうひとつ仕事があってネ、外国の大きな船に乗るノ、船は海に出ると
スリーマンス、シィクスマンス、イチネンも帰ってこれないノ」

88 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 01:27
 考えてみたらセシルの事は何も知らなかった。
「わたしのパスポートはネ、イミテーションなの」
 偽造旅券の話しは聞いていたが実際に偽造など出来るのだろうか?
「パスポートはいま持ってるの?」
「成田にネ、着いた日にお店のスタッフに預けるから今は無いの、エイ
リアン・カードがあるダケ」
 セシルは日本語と英語を織り交ぜながら、英単語は俺に分かるように
簡単な語彙を使い一言一言、言葉を選び説明してくれた。
 エイリアン・カードとは正式名称は外国人登録証といってフィリピン人
タレントは歌手、ダンサーという名目で三ヶ月間の興業ビサが降りるら
しい。
 そして興業を行う店の所在地にある市役所などの行政機関に外国人
登録を店側が行うという、その際にセシルなどタレントは店のスタッフと
一緒に市役所に赴くという。三ヶ月の期限が切れる前に一度だけ、もう
三ヶ月間の延長が認められるという。延長をすれば計、半年間、日本に
滞在出来るという仕組みらしい。
「見る?」
 そう言い、バックから取り出し、顔写真の入ったカードを見せてくれた。
有効期限は十月十八日になっていた。
「七月にエクステンションしたからネ」
 俺はセシルにカードを返した。セシルは手の中でカードを弄びながら、
フィリピンの偽造パスポートの仕組みを説明しはじめた。

89 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 01:32
「フィリピンはネ、給料安いノ、だからネ、お金さえあれば何でも出来る
のネ」
 右手でカードを弄び、左手の指でコーヒーカップを掴み、口へと運ぶ。
一旦話しは途切れ、また、ゆっくり話し始めた。
 セシルの話しによると、
 他人のパスポートをブローカーが買い取り、台紙と透明なフィルムを
剥がし写真だけすり替えをする方法と、もうひとつの方法は闇に流れる
本物の台紙を使い新たに作る方法だという。後者は完璧だとセシルは
笑って言う。それはそうだろう、本物の台紙を使い、偽物のパスポートを
作るのだから。パスホートなど当たり前で、国立大学の卒業証書、結婚
証明書、運転免許書、と何でもありらしい。
「ガン、拳銃? もあるよ、偽造じゃないけどネ、コピーだけどネ」
 ある島があり、その島に暮らす住民の全てが拳銃の密造に関わって
いると言う。
「コピーのけんじゅうはダメ、あまり良くない、たまに指飛んじゃうよ、や
っぱり、メイド イン USAが一番」
 そんな事を、さらりと笑いながら話しをするセシルはどんな生活を送っ
てきたのか? それともこのような話しはフィリピンでは普通なのか?

「失礼します、コーヒーのおかわり如何ですか?」
 ウェイトレスがコーヒーの入った器を持ち、テーブルを回っていた。
「そろそろ、行こうか」 俺は伝票を持ち立ち上がった。

90 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 01:38
****



 それからの俺達は何処にいくあても無く、毎日、毎日時間の中を漂い、
彷徨うだけだった。陽が沈むとラブホテルに入りお互いを求め快楽に溺
れ、陽が昇ると追い立てられるように寝乱れたベットを後にする。
 名古屋方面に走らせ岡崎城を見て国道一号線をまた東京方面に戻る
というように脈絡なくハンドルを握ることによって不安から逃げていた。
追う者の影なき追跡と今後の生活という不安を消し去る事は出来ない。
ただ一時忘れることは出来た。それは、セシルの存在だった。

 ハンドルを握り名前もしらない夜の町を走っていた。夜も八時と早い時
間だった。
「ナニ怒ってんノ?」
 知らず知らず、俺はぶっちょう顔をしていたらしく、セシルはそんな俺の
表情を見て怒っていると思ったらしい。
「いや、怒ってないよ、少し眠いだけ」

91 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 01:44
 本当は不安に押し潰されそうな自分がいた。
 前方の信号機が黄色から赤に変わるのを目の端で捉えながら、そう誤
魔化し答えた。
「エアコン切って、窓開けようヨ!」
 明るい声でそう言う、セシルは笑っていた。
「そうだね」
 俺とセシルは古い車体とガラスの擦れる、キュキュという音をさせなが
ら窓を開け放った。交差点で信号待ちをしていると、
 近くで夏祭りでもやっているのか祭囃子の音が風に乗り、途切れ途切
れに聞こえてきた。
「じぁさあ、眠いんなら、口でやってやろうか」
 言いながら指は俺のジーンズのジッパーをさげていた。快楽に身を委
ねる事だけで一時忘れる。時間の果てで、ふたりは彷徨っていた。それ
は雨に濡れた迷子の子猫のようで、二匹でお互いの体温を確かめあっ
ているそんな気がした。
 わたしはネ、日本でお金を稼ぐノ  セシルは確かそう言った。早く生活
を安定させなければならない。太鼓を叩く音が遠く近く聞こえていた。

92 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 11:11
 そんなことを半月も続け、ひとつの決断をした。アパートを借りて仕事を
探し働く事だった。俺は自分が生まれ育った県内に戻ることを決めた。
それは賭けだった。まさか戻ってくるとは思わないだろうと、追う者の裏を
かいたつもりだった。灯台もとくらしという言葉があるように、
 セシルの貴金属をすべて質屋に持っていき金に換えた。その金で県内
では二番目に大きな市にアパートを借りようと思った。その市はあの歓楽
街からは距離的にも十分離れていて安心できそうだった。

戸建ての古い長屋は茶色のトタン張りで屋根の瓦は安物を使っていた。
「築二十年と古い建物ですけど、この辺は市街地にも近く便利ですよ」
 紺の背広を着た不動産屋の若い社員はそう言う。
 六畳の部屋が二つ、四畳半の部屋が一つ、風呂、トイレ、台所と付いて
いた。畳もきれいに張替えられており、なかなか良さげだった。
「3LDKで駐車場も一台分ありますしね」
「家賃は月、いくらですか?」
「四万五千円です」

 その日、俺は契約書を持ち帰った。保証人の欄には筆跡を違えて親の
名前を勝手に書き三文判を押し、不動産屋は俺の仕事の有無を聞いてく
るだけでなく給料明細書の提出を求めた。俺は不動産屋の審査を通過さ
せる為、便利屋に金を支払いなんとか住む所を確保することが出来た。

93 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 12:07
「ちょっと待てって下さい、今、鍵渡しますね」

 夕方、不動産屋から鍵を受け取り、セシルとふたりでアパートに入る。
「わーぁ、広いネ」
 襖が開け放たれ、がらんとした何もない部屋は広く感じ、カーテンの無
いガラスサッシから秋の気配を含んだ乾いた夕日が畳をオレンジ色に染
めていた。
「あした、必要な物をホームセンターに買いに行こうか?」

 次の日、二人で近くのホームセンターに行った。
 カーテンの柄を選ぶセシルの横顔はうれしそうで、楽しそうで、子供の
ようだった。
 俺はカーテン売り場の隅で店員をつかまえ、
「クレジットカード使えますか?」
「はい、使えますよ」
 俺はそっと胸を撫で下ろした。テレビ、洗濯機、冷蔵庫、鍋、フライパン、
食器から歯ブラシまで買った。
 これで、逃亡生活に借金という枷まで加わった。しかし、そんな枷よりも
カーテンの柄を選ぶセシルの横顔を守りたい、と思った。

94 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 13:02
 コンビニで求人情報誌を買い、ぱらぱらとページを捲る。ひとつの募集
に目がとまった。それは大手宅配便の夜間荷引き作業とあった。飛脚の
マークの会社が直接雇うのではなく中間に人材派遣業社が入っていた。
その人材派遣業社が募集広告を出していた。夜の八時から朝の八時ま
で十二時間の拘束で一日働くと一万三千円とあった。その募集記事の
一番の魅力は木曜日〆の週払いだった。給料は月四回現金で支給する
という事だ。
 とにかく生活を維持するため俺はそのアルバイトに応募した。
 電話をした翌日、緊張しながら面接に赴くと、
 Tシャツにジーンズというラフな格好で、俺の履歴書に目を通す担当の
二十代後半の人は、自分の受け持ちの場所である、荷引きのベルトコン
ベアーを他の人に代わってもらい忙しい合間を縫って面接をしてくれた。
「いつから、これる?」
「はい、明日からでも…… 大丈夫です」
「じゃあ、明日の夜八時、十五分前には必ずここに来てくれる」
 あっけなく雇ってくれる事になった。

95 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 14:10
 十日も経った頃だろうか、荷引きのアルバイトもようやく慣れ初の給料
袋をセシルに渡した。セシルはこの中から五万円をフィリピンにいる母親
に送金したいと言う。その日、郵便局から送金した。そして帰りに夜の街
の片隅にある一軒のフィリピン・レストランに立ち寄った。セシルが言うに
はこの街の情報を得るにはフィリピン・レストランが良いと言う。
 この街に日本人と結婚して住む在日のフィリピーナの数、この街にある
フィリピンクラブの数や店の状況を簡単に把握する事が出来るのは個人
で小さく経営しているフィリピン・レストランに限ると断言した。
「わたし、お店で働くネ」
 いつかはそう言うだろうと心の中で思っていた。
「ああ、いいよ」

 街のはずれで開く一軒のフィリピン・レストランに入った。ドアを引くと
鈴の音が、
「カラン、カラン」
 と、耳をくすぐる。
「イラッシャイマセーー」
 三十代後半の人の良さそうな太ったフィリピーナが一人出迎えてくれ
席へと案内しようとした。
「ドウゾ」
「いえいえ、俺達、食事に来たんじゃないんです」

96 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 14:13
 セシルが俺の言葉を継ぐようにタガログ語で説明し始めた。太ったフィ
リピナーは納得したように頷き、話の腰を折らないようにタイミングを計り
俺達を空いている席へと勧めてくれる。席に座り、俺は所在なげに店内
を見渡した。小さなレジ横には木製の雑誌が入るラックが置いてあり、
紙質の悪そうなざらざらとした質感の雑誌が数冊、そのラックに差さって
いた。フィリピンの芸能雑誌なのかカラーの表紙に若い男女の写真が
遠めからでもよく判った。他にも、フィリピンのペーパーバツクか小説の
ような本が五十冊くらいワゴンの台の中で山になっていた。
 ひょいと目線を横に向けると壁一面に木製の棚が取り付けられ、その
棚に数百本のビデオテープが収まっていた。そんな俺の様子を見た、店
の太った女主人は目尻に皺を寄せ、
「あぁ、そのテープはネ、フィリピンの映画とかフィリピンの人気あるテレ
ビ番組を録画した物、一本五百円でレンタルしますヨ」
 陽気な声で俺に言った。それからも三十分近くセシルと太った女主人
は、なにやら話をしていた。
「いこッ」
 セシルは俺の腕に手を絡め席を立つ。店を出る前にレジ脇に並ぶ、
フィリピンのスナック菓子とサンミゲルビールの缶をふたつ手に取り、
「買っていい?」 俺に同意を求めた。黙って頷くとうれしそうに女主人に
支払いをしていた。
 セシルに限らず日本に長く居るフィリピーナ達は母国の味を求め母国
の言葉をビデオテープの中に探すのかもしれないと思った。

97 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 15:25
 それから数日後、フィリピン・レストランの女主人の紹介でセシルは夜
の店に働きに出るようになった。俺は荷引きのアルバイトをそのまま続
けていた。


 そんな生活が一ヶ月、二ヶ月と経ち手元に多少まとまった金が残った。
二人の収入を合わせると、月六十万円近かった。その中から家賃、光熱
費、食費、雑費、フィリピンにいるセシルの母親への送金を差し引いても
かなりの額が残った。少しづつであるが貯金も出来る様になった。
 俺は質屋に行き、質屋の金庫に納まった質草として預けてあるセシル
の貴金属をすべて引き戻した。

 何事もなく平和な時間が俺達を包んだ。俺の休日にあわせセシルも店
を休んで、二人揃って外で食事をしたり、映画に行ったり、冬の公園で散
歩を楽しんだりと夢のようだった。
 しかし、そんな夢のような時間が半年も過ぎた頃、悪夢が足音を忍ばせ
近づいてきた。それは何の前触れもなく突然やって来た。

98 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 17:31
 始まりは一本の電話だった。俺がアルバイトをしている宅配便の営業
所に俺の身内の者だと偽って電話が掛かってきた。俺はそんな事は知
らずに、いつもの通り夜八時に出勤した。
 俺を面接してくれた主任が声を掛けてきた。
「今日な、お父さんから、電話があったよ、お前さぁ、家出して御両親に
連絡先も教えてなかったのか?」
 俺は何の事か判らず、
「ええ」
 とだけ答えておいた。俺は実家にいる母親にもアパートの住所、電話
番号を教えていないばかりか、一切連絡は取っていなかった。
 あきらかに、あやしい電話だった。
「お父さんはさぁ、お前の住所を教えて欲しいと言んだけどさぁ、一応さぁ
お前に確認してからのほうが、いいかぁなっと思ってさぁ、教えなかった
よ、後で連絡してやってくれ」
 追う者の影がその姿を現し、その存在を誇示するかのように余裕のあ
る回りくどい手を使ってきた。追う者が切羽詰まっていれば、どんな手で
も使う筈だ。人気の無い裏道や電灯の無い露地でさらわれても不思議
はない。
 次は必ず、とどめを刺しに来る。
「すいません、俺、今日帰っていいですか?」

99 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 17:36
 そう言い捨て、ジェッタの置いてある駐車場に走った。シートに座り、
エンジンを掛け、全てのドアをロックした。
 落ち着け、落ち着け、とにかく考えるんだ。膝が震えた。携帯電話が
ある事を指の先で確認して、これでセシルとは連絡がつく。
 今、アパートに帰ることはマズい。アパート周辺で張っている可能性
があった。主任が受けた偽りの電話だって俺を誘き出す策かもしれな
かった。セシルはとりあえず大丈夫だろう。店にはスタッフもいるだろう
し、客もいるだろう。衆人の目の前で手荒な事は出来ないだろう。
 俺はとりあえず車を走らせた。信号に止まる度、心臓は高鳴り、目は
バックミラーを確認しにいく。走りながらセシルの携帯番号を打つ。
「ハーィ、ダーリン」
 セシルの声だった。その能天気な声を聞き張りつめていたものが一瞬
緩む思いがした。よかった。
「今から、店に迎えに行く、今日はこのまま店を早退しろ」
 セシルは、電話の向こう側で、いつもの俺と違う緊迫した声を感じ取っ
たのか、すぐに了解してくれた。
 もし、誰かがセシルの店を張っているとしたらヤバい。店のドアから
ジェッタに乗り込むまでが一番危険だった。
「俺が店の前に着いたら携帯を鳴らすから、店から一人で出てくるな、
必ずスタッフか誰でもいい男の人と店を出てこい。危ないから」

100 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 22:11
*****



 いままではただの序曲に過ぎなかった。本当の逃避行への旅が始ま
った。それは、いつ終わりがくるのか判らない、何処に出口があるのか
見つけられない、いやそもそも出口など初めから無いのではないのか?
そう思える程、長く、重い旅の始まりだった。

 日本国内を転々としながら生活を築くが、すぐにまた追う者によって崩
される。そして再び生活の基盤である部屋を借りるがそれも崩され踏み
にじられる。砂の城だった。作っては崩され、作っては崩され、
 追う者は心理的に有利であって、追われる者は心理的に追い詰められ
る。追う者は影をちらつかせ網を張る。追われる者は追う者の幻に怯え、
身も心も磨り減らす。

「ちょっと、急用ができましてセシルを早退させて下さい」
 車内から失礼だと思ったが、すぐに車を発進させたいという気持ちが
あり、俺はハンドルを握りながら店のスタッフにそう言った。
「店長ゴメンネ」

101 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/02 22:13
 ジェッタのすぐ脇まで、セシルを見送ってくれたスタッフは俺に向かい
声を掛けた。
「なにか、訳ありみたいなんで何も聞かないですが落ち着いたら、また
セシルさんに戻ってもらっても結構なんですからいつでも歓迎しますよ」
 そう早口で言ってくれた。そして、俺達を急かすようにジェッタの屋根を
ポンっとひとつ軽く叩き、はやく行けという仕草をした。俺は頭を下げ、ア
クセルを踏み込んだ。

102 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/03 15:58
 俺達はそのまま大阪を目指した。PARAISO (パライソ)という月刊誌が
あった。それは、フィリピン・レストランやフィリピンの雑貨を扱っている
店に置いてある雑誌で日本在住のフィリピーナに人気がありフィリピン
国内のニュースや芸能ゴシップ記事、法律相談Q&A、と多彩に紙面を
飾っていた。
 その中のひとつに求人コーナーがあった。タガログ語と日本語の併用
表記で募集記事を出している店なども多くあり日本人の俺が見ても内容
の判る物だった。日本各地にあるフィリピンクラブのオーナーが在日、オ
ーバースティーを問わず女の子の募集広告を出していた。
 その雑誌をセシルが見て問い合わせの電話を一本入れた。大阪の店
だった。大阪の店が出していた小さな記事だけを頼りに走った。
 俺達が持っている物といえば、携帯電話が二つ、サイフと中に入ってい
る銀行のキャシュカード一枚、わずかな現金、着替えの下着一枚さえ無
かった。セシルなどは店で着る衣装のままで手にセカンドバックひとつ
持つのみで、あとの物は全てアパートに置いてきてしまっていた。

103 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/03 16:01
 大阪までの距離は遠く日を継いで走った。昼間は健康ランドなどの人
の多い所をわざわざ選び人ごみの中で隠れるように眠り、陽が沈み夜
の国道が空き始めトラックばかりが行き交う時間に大阪へと向けハンド
ルを握った。とにかく人波のなかに自分達の存在を埋め込む事が一番
安全だと思えた。


「道頓堀、御存じですか? 道頓堀橋のたもとで夕方五時、待ち合わせ
しましょか」
「いえ、大阪の地は右も左も分らないもので……」
「ほな、近くに来たら電話もらえますか」
 俺は明日の夕方五時という約束を貰い携帯を切った。時計の針は夜
九時を指していた。明日の夕方五時まで二十時間近くあった。俺達はす
でに京都まで来ていた。

104 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/03 16:04
 翌日、地図を片手に道頓堀がある繁華街の近くまでは車で来れた。
しかし、この辺が繁華街だなという事は分るのだが道頓堀が何処なのか
判らなかった。現在位置を確認する為、電柱に貼ってある町名と地図を
交互に見比べ、信号機下の交差点名を見ては余計に分らなくなるという
事を繰り返し、いつしか夕方の四時になっていた。俺は自分で探すことを
諦めた。目印となる大きな郵便局が見えた。俺は局内の敷地にジェッタ
を滑り込ませ、職員に少しの間停めさせてくれるよう頼んだ。
「すいません、道頓堀という所に行きたいのですが、道がわからなくて
ここからタクシーで行こうと思うのですが暫くの間、ここに車を置かせて
もらっていいですか?」
 人の良さそうな職員は俺の車のナンバープレートに、ちらりと目線を
投げ、ひとつ頷き、
「ああ、ええですよ、局が閉まる前に帰ってきてもらえれば」
「すいません、用事済まして一時間、いや、一時間半くらいで車どかし
ますんで」
 大通りの端でタクシー拾い、セシルとふたり乗り込み、
「道頓堀の橋までお願いします」
 運転手は頷き、タクシーの車体は滑るように夕方の車で混み合う車列
の中へと割って入り繁華街へと向かった。

105 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/03 16:08
 タクシーのシートから足早に歩く人々の流れを目で追い、春を感じさせ
る服装にセシルと初めて逢った福生の店のことが思い出されてくる。
 たしか、あの時セシルはこう言った。ワタシ、4月20日に帰るフィリピン
あれから一年が経とうとしていた。

 道頓堀の橋は俺がイメージしていたものより、小さく普通の橋だった。
地元のタクシー運転手がここで降ろすのだから間違いないと思うのだが
本当にここが道頓堀の橋なのか?
 暫く橋のたもとで待っていると、河沿いの通りからそれらしき人物がこち
らに向かって歩いてくるのが見えた。陽が没する前の薄暗いあかりの中、
五十代前半、シルクなのか滑らかな素材のグレーのシャツに黒のスラッ
クスに金色の派手なバックルの皮ベルトが印象的だった。
 手には黒皮の中身で膨れたセカンドバックを小脇に抱えるように持って
いた。
「……さん?」
 人待ち顔の俺達は橋のたもとでは目立ったに違いない。真っ直ぐに俺
の脇に寄り声を掛けてきた。
「はい」
「立ち話もあれやから… そこに喫茶店あります、お茶でも飲みながら、
話、聞きましょか」
 男のメガネの奥にある目つきは鋭く、その筋の者を思わせた。

106 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/03 16:25
 歩いてすぐにその喫茶店はあった。俺とセシルは男の後ろについて歩
く。男が喫茶店の入り口の自動ドアに足をかけると、店内の一番目立つ
四人掛けの席から視線が飛んで来た。一斉にいかつい顔をした男達が
席を立った。ヤクザ者だった。
「社長、どうぞどうぞ、わしら、今店出よおもてましてん」
 四人の中のリーダー格が男に向かって言った。俺の金玉がぎゅっと縮
んだ。
「おう、そうか悪いな」
 男は堂々とした態度で、店内で一番目立つその席に腰を下ろした。俺
とセシルは男の相向かいへと座るべく、狭い通路を体を横にしヤクザ者
と擦れ違う。どのヤクザ者も俺達の顔をまじまじ眺めるのを視界の端で
捕らえ感じた。それは、敵意というよりも品定めという感じだった。

 そんな緊張する場面でもセシルはいつもと変わらずに、男の話に笑い
ながら答えていた。セシルのそんな姿は自分の商品価値を知っているか
のようで、やっぱり夜の女なんだ、そう思わせるものがあった。
 テーブルに注文したコーヒーカップが三つ並ぶ頃、初めて男の顔から
白い歯がこぼれ笑みを見ることが出来た。俺はようやく落ち着いて店内
を眺めることが出来た。八割がた埋まった店内の片隅に二人組の目つき
の鋭い男達がいた。素知らぬ顔でコーヒーを飲んでいるが俺達のテーブ
ルに注意をそそいでいるのはハッキリと伝わってくる。

107 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/03 16:32
 それは、当たり前のことだった。フィリピーナにくっついている男が堅気
だとは限らない。店のオーナーは自衛策としてヤクザ者をさりげなく傍に
置いておくのだった。
 半年後、大阪を後にする事になるのだが次に移った浜松の地でもそう
だった。浜松の店のオーナーは、まだ三十代後半か四十代前半と若く、
俺とセシルに初めて会う席に、ヤクザ者一人を連れ同伴で席に着いた。
 同席の二十代前半の色黒の肌をしたパンチパーマの男を俺が訝しげ
に見ているのを察したのか若い店のオーナーは、
「こいつは友達ですから」
 と言ったが、どうみても友達には見えなかった。そのパンチパーマの男
は最後まで一言も、しゃべる事は無かった。
 居場所を移るときには必ずそんな段取りがあり、それが俺の神経を磨り
減らした。店のオーナーと対面をする事が俺にとっては苦痛であり、又、
人間は動物なのだという事を実感させられる時でもあった。犬でもなんで
もそうだが、出会い頭の一瞬で優劣が決まる。人間も同じだった。
 店のオーナー達は俺と会い、俺という人間を判断する。そしてセシルを
雇い入れるかを判断する。
 それはオーナーと俺が出会った一瞬で決まる。喰うか喰われるかという
雰囲気の中での駆け引きだった。二十歳そこそこの俺を堅気の人間だと
判断し、そこで初めて硬い表情のオーナーの顔から白い歯がこぼれるの
が常だった。そして優位に立つオーナーと俺の立場が決まる。自然界の
法則が夜の世界にもあった。いや、夜の世界だからこそ法則は強く働くの
かもしれなかった。

108 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/04 00:25
******



 俺達は大阪に半年、浜松に二ヶ月間、それから茨城県の土浦市で半
年間と過ごし数日前にそこも追われ、そしてまた都内に向かって当てど
も無く彷徨っていた。夏の夕立が路面を叩き、もわっとアスファルトから
熱気が立ちそれも暫くすると風に流され、外は幾分涼しくなる。セシルと
一緒に迎える三回目の夏だった。

「この車も、良くガンバッテルヨネ」
 古い車体はワイパーをギコギコ鳴らし、不意にきた夕立の雨と戦って
いた。
「ああ、俺の腕がいいからな、エンジニアだよ、エンジニア、んっ、間違っ
た、メカニックか?」
 そう言った途端、エンジンがボコッボコッと息つぎをした。燃料メーター
の針が空を指している。
「ねぇ、横浜いこッ」
「ああ、いいよ中華街でも行こうか、その前にっとオンボロ、ジェッタに、
ごはんをあげないとね」
 俺は左手を助手席へと伸ばしセシルの膝上に乗せた。俺の手を包む
ようにセシルは両手のひらを重ねた。その荒れた手にはもう、ブランド物
の腕時計も無ければ、指輪も無かった。

109 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/04 02:09
 俺達は追う者の幻に追いかけられているだけで、実体の無い影に怯え
ているだけなのだ。惰性で逃げているだけだった。実際にヤクザ者と接し
物の考え方や行動を肌で感じると分る事だった。最初の一年間は俺達
を追っていた。しかし、それはあまり力を入れていなかった。店側の手前
仕方なしという所だと思う。これは今になって思えるが当時は真剣に逃げ
た。大金が絡むとか余程の事でないと三年間も追っては来ない。俺達を
追ってもヤクザ者にはメリットがないのだった。ただ俺達はその残像に怯
え自分達の足跡に怯えていた。日本は広いようで狭かった。
 俺達は土浦市で静かに暮らしていた。俺は昼間、トラックの配送の仕事
をして、セシルは夜、近所のスナックに働きに出ていた。ある日、偶然に
街でセシルは昔のタレント仲間を見かけた。そのタレントはセシルが逃げ
たあの歓楽街の店でいっしょに働いていたタレントだった。それに気付い
たセシルは見つからない様、顔を隠すようにしたが、タレントはセシルに
気付き声を掛けて来た。そのタレントと少し道で立ち話をしたという。
 どうやら、土浦市内のフィリピンクラブで働いているらしく、そのタレント
が言うには今でもあの歓楽街の逃げた店とコンタクトがあるらしい。俺達
は少しでも危険を感じたら逃げる癖がついていた。それはもう、惰性でし
かなかった。自分達が過去につけてきた足跡に怯えているだけだった。

110 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/04 02:13
 夏の夜、横浜の中華街は人でいっぱいだった。赤、緑、金これらの色
を上手く使った中華料理店の建物が俺達の目を奪った。俺は中華街に
来るのは生まれて初めてだった。見るもの、聞くものすべて珍しく新鮮に
思えた。軒を並べる料理店の明かりで道行く人々の顔は照らされ、店先
には豚まんが並び良い匂いを漂わせ食欲を誘う。程よい夏の夜風が頬
を撫で露店の裸電球が揺れていた。暖色のみかん色の電球の下には、
ヤシの実が皮を剥いて並べられていた。
「アッ、ヤシの実ダ」
 いち早くそれを見つけたセシルは立ち止まって露店の前から動こうと
しない。俺に目でねだっていた。
「すいません、ひとつください」
 露店の白のTシャツを着たお兄さんは、ヤシの実をひとつ手に取り硬そ
うなしっかりとした造りのストローをさしてくれセシルに手渡す。俺はポケ
ットから五百円玉を一つ出しお兄さんの手のひらに乗せた。
「甘くておいしいーッ、飲む? はい!」
 たしかに甘かった。俺は飲み慣れてないせいか美味いとは感じなかっ
た。しかし、セシルはヤシの果汁を全て飲み終えてもヤシの実を捨てよ
うとはしなかった。大事そうに抱えていた。
「フィリピン帰りたいネ、今度帰る時はいっしょに帰ろうネ」
 露店の裸電球が風に揺れ並べられたヤシの実が地面に影を落として
ゆらゆらと揺れていた。

111 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/04 05:19


 それから暫くして俺は埼玉県の所沢で仕事を得ることが出来た。四トン
車が十台程度の小さな運送会社だった。その会社の社長である親父さん
に俺達の状況を正直に話した。
「よし、分った、アパートはなんとかしてやる、明日から仕事に来い、その
かわり条件が一つある、一年間、休日返上でトラックの整備をやる事」
 その言葉通りアパートから一切合切、俺達の面倒をみてくれた。俺は
一生懸命働いた、定期便の配送で毎日決まったコースなので朝は早い
が夜の七時にはアパートに帰れた。日曜日の休みになると会社の車庫
にセシルと二人で行き、トラックの整備をした。もっともセシルは横で見て
いるだけだったが、朝から弁当を作り俺について来た。俺は青のつなぎ
を着てオイル交換、グリスアップ、ブーレーキパット交換、クラッチ交換と
十二台あるトラックはどれかしら手を入れなければならなかった。
 タイヤ交換などは大仕事だった。四トン車で前輪二本、後輪の内側と
外側で四本、計六本を一人で外し入れ替えをするのに汗だくになった。

 そんな生活が数ヶ月続いた。セシルも働きには出ずに家で夕食を作り
俺を待ってくれていた。
 夜、家に帰ると部屋には明かりが灯っている生活は楽しく心和んだ。
薄給だが慎ましい生活には希望があった。

112 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/04 05:22
 その朝、仕事に出かける前の俺に、セシルは頭が痛いと訴えた。俺は
朝の慌ただしい時間の中で支度を終え、丸い形のディズニィーの絵が
描いてあるクッキー缶をタンスの上から取ってあげた。それが我が家の
薬入れだった。
「薬がそのクッキー缶にあったと思うよ」
 そう言いながら日本語の読めないセシルに代わり頭痛薬の箱を選んで
やった。
 弱々しく頷くセシルの顔色は悪く、俺は仕事を休んでも医者に連れて行
ったほうがいいかなと思ったが、トラックには配達予定の荷が積んである
し急に休みますと言っても代わりの運転手はいなかった。
 仕事の途中、何度も携帯から電話を入れたが、呼び出し音が虚しく響く
ばかりだった。それでも初めは眠っているのかなと思った。何度も何度も
電話を入れたがセシル出なかった。胸騒ぎがした。帰りの道中、信号に
引っ掛かるたびに、赤信号の時間が長く感じアクセルを踏み込む自分が
いた。

113 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/04 05:25
 息せき切って家まで帰ると部屋の電気は点いておらず真っ暗だった。
玄関の鍵をポケットから取り出すのも、もどかしく。
「いま、帰ったよ」
 暗い部屋に声を掛けても返事はなかった。部屋に明かりを点けると、
布団の中でセシル眠っていた。俺は布団の脇にしゃがみ耳元で、
「いま、帰ったよ、ただいま」
 起きる気配もなく、セシルの肩を揺すった。何度も何度も揺すったけれ
どセシルは起きてくれず、
「なあ、起きてくれよ……」
 涙声になっていた。冷たくなったセシルは起きてくれず、
「俺… 独りにするなよ、いっしょにフィリピン帰るって言っただろう…」

 悔やんでも悔やんでも悔やみ切れない、朝、俺は病院に連れて行けば
よかった。セシルはひとり寂しく逝ってしまった。身体と俺を残して魂だけ
一人フィリピンへと帰ってしまった。

114 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/04 05:31

 蒼い空に煙は昇っていった。小さくなったセシルの入った骨壷を受け取
り斎場を後にした。
 俺はジェッタの助手席にセシルを乗せ走らせた。何処に行く訳でもなく
ただ、走っていたかった。無意識のうちに死に場所を求めていたのかも
しれない。
 いつしか俺が生まれ育った県に向かっていた。初めてセシルと住んだ
アパートの前にいた。暫くぼんやりと眺め、
 俺はセシルの残り香を求めるようにフィリピン・レストランにふらふらと
入った。
「いらっしゃいませ」
 太った女主人が迎えてくれた。
「久しぶりネ、奥さん、元気!」
 俺は、ええ、とだけ返事をした。言わなかった。言えば此処で泣いてし
まいそうだった。
 テーブルの上に置いてあった古雑誌を何の気なしに捲った。
 開いたページに、セシルの顔写真が載っていた。
 映画の紹介記事らしく、主役の男女の写真が大きくありその脇に小さ
な白黒写真でセシルが載っていた。若い頃の写真だが間違いなくセシル
だった。俺のそんな表情を見ていたのか、店の女主人が声を掛けた。
「奥さん、フィリピンの映画出てるの知らないの?」

115 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/04 05:34
 俺は知らなかった。セシルからそんな話を聞いた事はなかった。いや
あった、福生の店で、初めてセシルと出逢った夜だった。あの時、俺は
冗談だと思った。
「奥さんの映画のテープあるヨ」
 そう言い、女主人はテープの収まる棚を探してくれた。
「えっと、ドコかな、たしかこのへん、あった、あった」
 白いケースに入った一本のテープを俺は受け取った。
「これ、借りていいですか?」
「あげますョ」
 俺はひとりで観たかった。誰にも邪魔されず静かに観たかった。その
為に家に帰ろうと思った。テープを観る為だけに、ただその為だけに、

116 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/04 05:36



 テープをデッキに入れ再生した。画面の中でセシルは生きていた。
俺はアパートの薄暗い部屋で、小さな骨壺に入ったセシルを腕の中に
抱きしめた。

 全ての出来事に意味があるのならば、俺は神様に問いたい、
 人は何故生まれてくるのですか? 人は何故死にゆくのですか?
 もう、悲しみはいりません。

117 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/10 05:21
あかんね。最終話の物語で時間系列をぶっ飛ばし過ぎた。場面が
飛びすぎて読み手が混乱するね。最後の最後に書き急ぎの後を
文章に残した。レス番111からラストまで文章に練りが足りない。
(見る人が見れば一発で見抜く危険性大)
三つの物語を強引に繋げすぎーーーーーーーーーーーーた感あり。
もうちょっと、さらっとやればよかったかな? 今後の課題かなっと。
それと、主人公の内面の独白が長いと読み手を疲れさせるね。独白
は心理描写ではない。という事が今回書いてみて分った。
心理描写は風景、手の動き、目線の動き、音、匂い、これらで描く事
が大事かもしれん。
情景描写7、独白3、位の割合がいいのかな?
バランス配分は今後の大きな課題でもある。今作は自己評価50点。

寝よ。おやしみ〜〜

118 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/10 16:42:41
ふろしきで 地球包んで みたけれど
台風飛び出す 渦の模様と

119 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/10 16:44:26
淡々と 日々を重ねし 淡々と
なにもない 事のしあわせ 噛みしめて

120 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/10 16:48:04
山となす ときには海に こころ変る
我めざすとこ 大愚のごとし

121 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/10 17:19:52
 別れたあの人とデパートの入り口、人波のなかですれ違った。
 お互いがすれちがって他人のように表情ひとつ変わらなかった。擦れ
違った後、おたがい同時に振り向いた。
 ほんの一瞬だった。声もでなかった。 2人とも……
 その後、何もなかったように、別々の方向に歩いていった。あの人と
擦れ違いざま硝煙の匂いが鼻腔をついた。
 一年前の記憶が蘇る。私は指先に残った火薬の匂いを思い出してい
た。確かに、あの人はあの時に死んだはず……なのに……

「トカゲのしっぽ切りか」
 私は本気だったのに……
 あの人との出会いは巧妙に仕掛けられた組織の罠だった。
「別な形で出会いたかったね…… もし、生まれ変わった…… ら……」
 と、あの人は最後に言った。
 しかし、その言葉も最後まで聞く事は叶わず銃口の先にあなたは倒れ
ていた。

 人の別れと出会いとは螺旋階段を登り降りするようなものかもしれな
い。
 遠く赤く落日する太陽。オレンジ色のひかりが螺旋階段に射している。
私はその西日に照らされた鉄のDNAを見上げていた。
 所々、黒の手すりが錆びている。まるで記憶の棘のように、、、、

122 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/10 18:08:56
 水分を帯びた紅い月は、いつしか夜空が澄み、やわらかな黄を月が
纏う頃、蝉の鳴き声にかわり鈴虫が秋の夜長を一晩中演奏する。
 季節は夏から秋に入れ替わっていた。私が縁側で、まんじゅう片手
に緑茶を啜っていると、
「どうやら日本も戦争に突入するらしい、今年の冬は大変な事が起こり
よる、章介さんも気いつけないかんよ、これから物が不足するよ」
 どこで聞きつけたのか隣の誠一郎はそんな事を真剣な顔で言い、慌し
く帰ってしまった。

 軍靴の足音が遠く近く聞こえてきそうな、昭和十六年、九月末のこと
だった。

123 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/11 01:03:40
 水気を含んだ夏の紅い月はやがて、季節の移ろいと共にやわらかな
黄色を帯びた月へとその姿を変え中空の夜空にぽっかり浮かぶ。
 夏の降るような蝉時雨に替わり秋の夜長を鈴虫の音が耳をくすぐる。
陽が沈み夜になると少し肌寒いくらいの風が母屋の裏手にある竹薮の
葉をカサカサと揺らした。私は縁側で一人そんな鈴虫と風の合唱を聞き
ながら、まんじゅうを片手に緑茶をすすっていると、隣の誠一郎が息せき
切って走り寄って来た。と、思うと縁側の淵に腰掛、荒い息を整え、
「どぅやら日本も戦争に突入するらしい、今年の冬は大変な事が起こり
よる、章介さんも気いつけないかんよ、これから物が不足するよ」
 どこで聞きつけたのか誠一郎はそんな事を真剣な顔で言う。
「まぁ、お茶でも飲んでいきなぃや、茶碗がないからこれでええな」
 私は自分の碗を手に取り中身を庭へと腕を振り放った。急須に残った
冷めた茶を碗に注ぎ誠一郎の前に出した。
 誠一郎は、よほど喉が渇いていたのか喉仏をごくりごくりと言わして
一息に飲み干した。
 と、思ったらすぐに慌しく席を立ちながら、「ふぅ、旨かった」
 席の温まる暇なく他所へと飛ぶように駆け出す。闇の中に消えそうな
誠一郎の背に向かって大きな声を出す。
「おい、何処いくんじゃい」
「まだ、まわらならん所があるんじゃ」

 軍靴の足音が遠く近く聞こえてきそうな、昭和十六年、九月末のこと
だった。

124 名前:名無しちゃん…電波届いた? :04/09/11 17:43:21
黒の点 青の芝生に 跳ねるかな
こらす目先に こおろぎひとつ



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